日本のWebは「残念」じゃないよ。

お久しぶり、しおです。

先月に話題になった『日本のWebは「残念」』というITmediaに掲載された梅田望夫氏のインタビューについて、日本人じゃない人、それから日本のウェブが大好きな僕の視点から少しだけ取り上げたいと思う。

梅田氏のインタビューについては色々な意見があちこちで出ているみたいだけど、それはとりあえず別にして、感情的に梅田氏が使った「残念」という言葉についてまず集中したい。「残念って何が残念?」って。「アメリカと違うから残念なの?」って、などなど。あの言葉の使い方に対しての僕の反応は最初結構激しかった。腹立ったよ。

どうしてかというと、「残念」というのは「米国とはずいぶん違うもの」という基準での評価だから。言うまでもなく、米国のウェブは日本のウェブよりずっと進んでいるわけ、という感じだった。少なくとも米国のウェブを触れた人はそう思うわけ。

そういう考え方のではないか、と。

例えば、id:elm200さんがこう書いた

カナダに以前4年間住んで、細々とプログラマーをやっていた身からすると、梅田氏の英語圏と日本語圏の文化の違いについての指摘は、しごくもっともで、英語圏在住のまともな日本人ならだいたい同意するんじゃないかな。

そもそもみんな英語圏の内情を理解してるんかな。[...] 梅田さんは日本語のウェブと英語のウェブの両方をかなり深く知っている稀有の日本人には間違いない。みんな英語圏のことがわからないなら、黙っていればいいのに。

それはどうかな。

まずは関係している梅田氏のインタビューからの引用

英語圏の空間というのは、学術論文が全部あるというところも含めて、知に関する最高峰の人たちが知をオープン化しているという現実もあるし。途上国援助みたいな文脈で教育コンテンツの充実みたいなのも圧倒的だし。頑張ってプロになって生計を立てるための、学習の高速道路みたいなのもあれば、登竜門を用意する会社もあったり。そういうことが次々起きているわけです。

「知に関する最高峰の人たち」って、もうイヤーな感じ。大嫌い、こういうのは。本当に。「学習の高速道路」などって話。あまり説明できないけど、生理的に受け付けない、僕は。

多分それは日本のネットサブカルチャーの影響かな。あまりニコニコ動画にハマっているわけではないけど、そのようないわゆるサブカルチャーのものの価値が分かる。濱野智史氏の「アーキテクチャの生態系」や、佐々木俊尚の「ブログ論壇の誕生」など、こういう本を読んで、日本のウェブの特有な価値がよく分かる。こういうブロガーの文章を読んだら分かる。

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

ブログ論壇の誕生 (文春新書)

ブログ論壇の誕生 (文春新書)

で、その特有な価値は、きっとアメリカのネットにはない。サブカルチャーとも言うけど、それはこれから大事になるサブカルチャーだと思う。

っていえば、それについて梅田氏がこう書いた

素晴らしい能力の増幅器たるネットが、サブカルチャー領域以外ではほとんど使わない、“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはあります。そういうところは英語圏との違いがものすごく大きく、僕の目にはそこがクローズアップされて見えてしまうんです。

「上の人」?気持ち悪いなー。

私も「バカと暇人」の一人かな。

そういえば、佐々木俊尚が梅田氏のインタビューについて面白いことを書いた

「バカと暇人から文化は生まれるんだよ。」

そうだよ!もう、この「上の人」の話をやめようか。もうイヤです。アメリカをとりあえず無視して、日本のサブカルチャーの可能性に集中しようか。そこは価値があるから。

梅田さん、日本のWebは残念じゃないですよ。

おつまみ話

最近ホッピーという昭和っぽい瓶に入った飲み物は流行っているような気がする。気のせいかな〜
それを気づいて今回のトピックが思いついた。

そう、酒の文化について考えてみようと思う。私は二十歳ぐらいまで素面だったけど、一応イタリア人だから小さいころからビールとワインを飲む人に囲まれて育ったと言える。お母さんやら、友達やら、先生たちなどみんなワインなどを飲むことが当たり前で、専門家じゃない人もワインの味を区別できるぐらい。しかも、数年前まで(いつだろう?!よく覚えてないけど)最近、イタリアでも16歳未満酒を買っちゃいけないというルールができて[注]、2年前ぐらい(最近すぎだね!)運転する前、一杯まで許されるという法律が効力を発生した。
よく言われるけど、北ヨーロッパとかでは寒いから人は家にこもって飲む飲む飲む。逆に、イタリアみたいな暖かい国ではもちろん若者が酔っぱらうし、悲劇を起こすこともあるけど、食事の時、あるいは仲間といる時だけ酒を飲む人は圧倒的に多い。
個人的な話だけど、素面から飲めるようになったのは日本に来てからだ。日本ではカクテルに入るアルコールの量が少なくて、氷はありすぎて、テキーラサンライスオレンジジュースになって、ジントニックレモネードになる。
そのおかげか、アルコールの味に慣れるようになったけど最初はこんなものを子供も飲めるんじゃないかと思って。。。まさにそうかも!日本では酒を飲めない人は世間知らずとして見られている。特に男性。女性はまだ「可愛い」と言えるかもしれないけど、男はビールを飲まないと男前じゃない、んじゃない?だから酒は一般的に薄いんだろう。皆飲めるように。

by Flickr id: Snowy
そして、テレビや電車の広告を見ても、「Aaaah!」ってビール飲んで満足するというオスの発言がよく目(耳)にする。
なぜ?と考えた時に、ベロンベロンのサラリーマンを思い出した。
仕事帰りでみんな同じように酔ってて、もちつもたれつで、ビール臭い息で言った「お疲れ様でした」は付加価値があるだろうというふうに思った。
ひとつの疑問だけ残っているけど。
もし、酒を飲むことは自分をあるグループの一人分として思えることを安易するとしたら、全然酔ってないのに、酔っ払いの振りをする人が日本にもいるかしら。。。(イタリアに結構いるけど)

注:アルコール度の高い飲み物は18歳以上。

牛丼屋と日本のイメージ

−外国人監督が見た東京(2)

(よんです。先に前回まで盛り上がった「はてな論争」に関する感想を少し述べたいと思います)

日本を見つめていくなかでは、はてなを見つめてみることも結構面白いと思い、しおさんが関わった「はてな論争」は楽しく見ていました。

しおさんが言っている通り、私はこのはてなについて何の事も知りませんでした。はてなの存在も知らず、興味を持つようなこともありませんでした。以前日本でブログを始めたいと友達に相談をしたとき、mixiに招待してもらいました。そのときに個人的な日記を書いた時期もありましたが、注目されないブログは書く人を意気消沈させます。さらに今の主流の社会は何気なく明るい世界を肯定し、明るくない性向を否定的にとる傾向が存在します。私の文章は決して「Positive」ではありませんでした。それが間違いではありませんでしたが、みんなの、「Positive」ではない私の文章に関する突っ込みが私をつまらない気持ちにさせたのです。mixiはご存じのとおり、招待をもらわないと、日記を公開したりしません。そのシステムもちょっと疑問に思いました。私は自分の文章を見せる相手を選ばなければならない。ああ、面倒くさい。(このシステムのいい点ももちろんありますが)

自分のなかでmixiは 極個人的な場であり、私が何を書いても、私に選ばれた読者たち(ほぼ知り合い)は私の想像を超える突っ込みをしてくれませんでした。後ではもしかして私が個人対世界の話を説いていこうとしても、個人のほうが勝つ話を書かなければと思ったときもありました。(決して私の知り合いたちをばかにするわけではありません)多忙な日々の続きと重なったその瞬間、ブログを続けたいという気持ちは消えてしまいました

その後、しおさんとしらふさんとブログを始めたことは偶然なできことでした。しかし、前からずっと、さまざまな知らない人に公開できる場でブログを始めたい、読者を選ばなくても自然に興味が合う読者が集まってくると、ブログへの思いは自分のなかで大きくなっていたのです。例えば、「Positive」か「Positive」ではないかという区分の仕方ではなく、それはひとつの個性になります。文字化されたイメージのうわべに存在する話、さらにその上もしくは遠くから眺めた話も書けるチャンスになるかもしれない。

mixiでの経験は私の特殊な経験であり、偏見にすぎないかもしれません。はてなが私にぴったり合う場であるとも断定はできません。最近の「はてな論争」を見て、はてなではさまざまな実験(?)ができそうな気がしてきました。その上、はてなでも日本という国、現在私が暮らしている社会を見つめられる場として考えられるということに気付いたと言いましょうか。もう一つ、なにか書いてみたいという勇気ももらいました。なので、はてな側が喜ぶか、はてなの読者側が喜ぶか、自分だけが喜ぶかは関係なく、書き続けたいと思いました。
冒頭が長くなりました。これからは前回に続き、映画の話に入ります。


しおさんは前回の話で「芸者とすし」という言葉を使った。それは典型的に日本を代表するようなイメージであると考えられる。一方、コメントを書いた石川さんは「牛丼を食べれば日本を知る」と言った。私は前回のブログで映画のなかに描かれた東京のイメージの多くがセクス王国のように描かれたという話をした。今回は 「芸者とすし」ではなく、「牛丼とセクス王国」という話題で話をしたい。(たぶん今回は牛丼の話で精一杯だと思いますが)

前回取り上げた映画「Cherry Blossoms−Hanami」では主人公Rudiの息子が日本の会社に勤めている。彼は遅くまで残業がちで、日本に訪ねてきた父Rudiは一人マンションで息子を待つ。息子Karlは夜遅く帰宅し、二人は遅い夕飯を食べに出かける。しかし、その周辺のレストランは開いている店がなく、息子は父を牛丼屋に連れて入る。そこで二人のドイツ人が牛丼を食べる風景が広がる。


〈By jetalone(flickr)〉

二人が牛丼を食べることで思い浮かんだことがあった。日本に初めて旅行に来たとき、私は東京市内のビジネスホテルへの到着時刻が遅くなった。友達と夕飯を食べに出かけても開いている店はコンビニと牛丼屋しかない。仕方なく牛丼屋に入った。そこで何より驚いたのは漬物や味噌汁が何もついてない牛丼のみを食べなければならなかったことだった。(普通漬物と味噌汁が自動的についてくる国に住んでいた)そのときのちょっとした驚きとともに甘い牛丼の味がほのかに私のなかに残っていたのだが、この映画に登場する牛丼屋のシーンは、私を過去の思い出に運んでくれたのである。

牛丼はご飯(おやつではない)でありながらもファーストフードの感覚で食べられる。和食ファーストフードと言えるだろうか。Wikiでも次のようにいう。

日本には、アメリカ系ファーストフードチェーンの他、様々なファーストフードチェーンがある。「安い」「早い」というキーワードで言うなら、立 ち食いそば・うどん・おにぎりのような古来からの食文化がファーストフードとなったのみならず、牛丼・ラーメン・カレーライスなど、近代になってから日本 で展開されるようになった食文化もファーストフードチェーンとして営業している。*1


牛丼のファーストフード化は、日本の文化が外国の文化を自国の合う文化に変更かつ活用してきた歴史ともつながる。映画で取り上げた二人のドイツ人が牛丼を食べる風景は、他の日本を表象する品物とともに描かれ、そこには監督が見つめた日本という国のイメージが重なっている。日本の職場を持つ息子Karl には日本人のサラリーマンの姿が重なっている。この映画ではどの映画よりも日本を象徴するようなものがあっちこっちに登場する。息子が暮らすマンションの玄関にはこいのぼりが掛けられ、冷蔵庫には招き猫のマグネット、日本の城を背景に「JAPAN」の文字が目立つ観光広報用ポスター、部屋に飾られたさくらの枝などな ど。日本人も思い浮かぶだろうが、そこには外国人が見て日本をイメージするだろうと思う日本グッズが並んでいる。

日本で初めて牛丼を食べたとき、私は牛丼屋の経験によってある程度日本のイメージを捉えはじめたと思う。

  1. ファミレスとは違って狭いスペース
  2. 誰が作っても均等した味
  3. 一人でも食べやすく配慮されている席
  4. メインメニュ以外の付いてくるものなし

このなかで1は日本の狭い住居空間など、東京の狭い空間で暮らすもしくは働く人々の生活を思い浮かび、2はファーストフード化された和食と関係する。また、この点は細かいところまで細心の注意を払う日本人の細かさと関連するだろうか。3は一人の行動が多い国オタク文化や引きこもりなどと関連し)でもあることに納得でき、4は日本が経済を優先する国である(以前からアジア諸国のなかでも経済的に発達した国)こととも関係するだろう。

手馴れない箸を使いながら、牛丼屋の牛丼を食べるRudiの心情に私はこのようなことを結びつけていた。もしこの映画の監督も私の考えに同感するかもしれないとも思った。(つづく)

勉強になった「はてな」

(しおです。)

僕達は普通にこのブログで、エントリーを交代で書きますが、今回ブックマークの数がかなり多くて、とにかく早めに何かを書いた方がいいと思って、この短い記事を書いておきます。

で、まぁ色々な反応があったんですが、とりあえず明確にしておきたい点はいくつかありました。

まず「もともと知的コンプレックスの定義がわからん」というようなコメントに答えたいと思います。「知的コンプレックス」というのはもともと石川さんという人が書いた表現で、その細かい意味はよく知りません。彼はどういう意味で「知的コンプレックス」使っていたなど、僕は知りません。彼はそれをコメントの中で書きませんでしたし。それはそれでいいと思います。

そこで大切なポイントですが、「定義してから論理的な議論をする」というような流れをもともと目指していたわけではなかったです。議論が好きな人は議論していいですが。知的コンプレックスについての「議論」というより、はてな」というコミュニティについて、はてなの中の人が反省することを目指していたわけ。それが上手くできたら僕たちも、特にあまり詳しくないヨンさんとシラフさんが、はてなはどういうコミュニティかという点について、ある程度理解ができるようになるというふうに考えていました。

定義の点について、id:jura03こういうふうに書きました

「知的コンプレックス」の意味するところが分からんというのはもっともで僕もよく分からなかったが、だからといって「しお」さんに定義しろというのは酷な話。まず、最初にコメント欄で「知的コンプレックス」という言葉を使った人が定義すべきだ。だいたい、知的コンプレックス云々に違和感を表明しているのは、なにより「しお」さん自身だし。その上で、「しお」さんなりの理解をいってくれたら、もうちょっと分かりやすかったかなとは思う。

実は『「知的コンプレックス」=「知的劣等感」』というような解釈が多かったみたいですが、正直言うと僕は少し違う意味で使っていました。でもそれはそれでいいと思います。とにかく僕の定義に対しての反応や、はてなについての論理的な議論などではなく、皆さんのその石川さんのコメントをきっかけとして、はてなについてはどう考えていると言う点を目指していたからです。

それから、僕が書いたものについていろいろな意見がありましたけど、特に目立ったのが「ないなら、声を挙げてください!」という文でした。実は今読むと、確かに恥ずかしいですね。何か言い訳ではないですが、そもそもはそんなに多くのブロガーがこのエントリーを読むとは思わなかったですし、あまりその文の意味は深く考えなかったです。確かに英語に翻訳して考えるとちょっとバカに聞こえますけど。

でもその後の意見は正直言うと、過剰解釈した人が結構いたみたいです。それはまぁ、「知的コンプレックス」までは呼ばないですがね。。。

とにかくid:mukunokiy0725書いたこと伝えたかったこととぴったり合っているので、それを引用します:

1)しおさんは「はてなって、サービスとしてもコミュニティとしても面白いとおもう」という、jkondoさんはじめ株式会社はてなを経営している皆さんが喜びそうな文章を書いた

2)その文章の一部分について石川さんが「はてなは日本を代表したりしない」と混ぜ返した

3)しおさんが石川さんのコメントとそれに対するブックマーク・コメントの傾向を捕らえて、「そんなことはないし、みんなもっと反論していいんじゃない?」と意見を表した

id:mukunokiy0725さんが書いた3つのポイントが僕の考えと丁度合っていて、これ以上は過剰解釈です。解釈することが好きな人は過剰解釈して構わないですが、僕はエントリーを書いていたときにこれより深く考えていたわけではなかったです

で、「だいたいあってる」という用語、id:kanimasterさんにありがとうございます。はてなの用語はほとんど知りません。「釣り記事」を書いたらしいですが、こういう使い方の「釣り」という言葉の意味も、今までまったく知りませんでした。

初心者の僕として、はてなの日本語は本当に勉強になりました。

「はてな」という、知的コンプレックスがある人たちのコミュニティ

お世話になっております、しおです。

外国人として、はてなのどこが面白い?」という僕の5月3日のエントリーは思ったよりすごい人気があったみたい。ビックリ。やはり(当然かもしれませんけど)「はてな」というテーマについて興味のある人が多いよね。

それで、今回は前のエントリーの続きとして、コメント欄から始生まれた話を取り上げたいと思う。石川さんという人が書いたコメントの最初の部分を引用します。

はてなは、特殊な人の集まりであって、日本を表していません。知的コンプレックスがある人たちのコミュニティです。現実の日本人には、知的コンプレックスはありません。」

個人的に僕はこの意見についてどう思うか、という点はとりあえずおいてて、まずはてなのユーザーの反応から考え始めたい。面白いことに、はてブのコメントを読んでみると、上の意見に対しての反応の多くは二つのグループに分けられて、id:h_tksnさんの「だいたいあってる」みたいな反応もあれば、id:ono_matopeさんの「コメントがつまらない」という反応もあった。他にも、id:mobanamaさんの『なんか「特殊」っぽいひとが自分が特殊に該当しないかのようなコメントをつけている。』や、id:Neanさんの「 自分は日本人的でないと考える典型的日本人がコメントしてる」というような批判もあった。

そこで、上の引用の内容に注目し、「合っている」/「合ってない」という正反対の反応を広げるために、コメント欄に書いた意見をもう少し分析して言い換えたいと思う。


順番を変えりますが、コメントには3つのことが述べられていると言えるでしょう。

  1. はてなはコンプレックスがある人たちのコミュニティです。
  2. 現実の日本人には、知的なコンプレックスはありません。
  3. (したがって)はてなは日本を表しません。


この3つの中、1)が一番目立つ意見だと感じるよね。「はてなは特殊な人の集まり」という意見はある意味で共感するかもしれないが、個人的に「知的コンプレックス」とは言い過ぎる、と僕は思う。

もちろん日本人ではないし、日本語も第二言語なので何も言えないかもしれないが、僕自身ははてなダイアリーで書いた文章の質が、他の日本のブログサービスや参加型メディアなどで出ている文章の質と比べて、比較的に高いと思う。それはもちろん「ノーベル賞」みたいなレベルの「質」っていうわけではない。また、「知識人が書いたもの」みたいな堅い「質」という意味でもない。

むしろ、あまり有名じゃない人が、今まであまり分析されなかったことや、今まで気が付かれなかったことについて深く考えて、細かく分析して、自分なりに優れた文章を書くところ、そこが「はてな」だと僕は思う。

なので、はてなダイアリーのエントリーの多くは「考えすぎるよ」と言えるかもしれないにもかかわらず、「知的コンプレックス」というイメージはズレていると感じる。id:snow113さんが書いた『「ダイアリー」なのに日記的でないのがはてなダイアリーの特徴/確かに「論壇的」な雰囲気を強く感じる』のほうがあっているかな、と個人的に思う。

「日々の色々・The colour of the sun」を読んでいる皆さん、特にはてなダイアリーで書いているブロガーの皆さん、どう思う?知的コンプレックスあるの?ないなら、声を上げてください!


続きまして、次の2)。「現実の日本人には、知的なコンプレックスがありません」ということは、別に反論しません。


そして最後の3)の、「はてなは日本を表しません」ということ。これは日本人ではないので何も言えないかもしれないし、「日本を表す」こと自体はどういう意味か、ちょっと分からないですが、何か僕はこの意見に対しても違和感があるな。

日本全体を表すことは本当にあるのかな、僕自信は疑問がある。しらふさんの「日本の文化を知っててください!」という記事を思い出す。「はてなは日本を表しません」なら、日本を表すのはナニ?石川さんが「330円の牛丼」を食べると日本が分かるというような助言をしたけど、残念ながらそれは足りないですよね。それだけでは「すしと芸者」に絶対負けるよ。


そこで僕はね、「すしと芸者」という海外で日本を表すイメージより、はてなダイアリーに出ている話、例えば秋葉原通り魔事件の裏にある日本の現実や、グーグルストリートビューの反対する声の裏にあることなどのほうが、現代の「日本」を表すと思うよ。せっかく英語に翻訳したということは、当たり前そういうわけだった。

でもそれも、読者の皆さんからの意見を聞きたいな。id:umetenさんの『一個人が垣間見た日本の側面について騙っているのに、すぐに「本当の日本」とか「純粋な日本」とか言いたがる人が登場の巻。』というコメントを読むとやはり、早合点しちゃうという心配もある。

でもね、そうであれば、直接言うってよ。間違っているなら直してよ。私たちはちゃんと聞いているよ。

何も説明しないや、他の人に任せると当然、「すしと芸者」というイメージになるわけ。はてなは日本を表しないかもしれないが、少なくとも「すしと芸者」よりずっと代表的だと僕は思う。

仮面の力

世界中、多文化ではコスプレ(つまり自分と違うものに仮装すること)という習慣が昔からある。例えば、カーニバル(謝肉祭)はそうでしょう。
カーニバルとは昔々(クリスト教の祭りになる前に)大きな社会的な機能を果たした。数日間に限って、社会的な逆転が起きて、一年中みじめな生活を送る最低階級が社会的な義務から解放されていた。
それで、もちろん最終的な役割は現状の維持だった。
今はそうじゃない。現代のヨーロッパではその由来を知っている人はあんまりいないと思うし、今のカーニバルは子供の祭りほかない。
では、近年原宿のほうでよく見かけられるコスプレは。。。?
よく考えるとカーニバルとの似たような機能をはたしているんじゃないかな〜
簡単に言うと、毎日きつい制服を着たりしなきゃならない中高生が週末は来ると派手な服を着て、化粧して、やっと青年女[男]子らしく振舞うことができる。つまり、仮面をつけるということで、自分のパーソナリティを活かせる。
じゃ、大人の場合はどうなんだろう?
例外を別として、大人の日本人はコスプレしないとわかっている。だが、
大人にはDISNEEEY。。。


by Flickr user: mount

はい。ディズニーランドのキラキラの御姫様、笑うしかできないミッキーの顔 (以上の写真見れば分かる!)、人工的な幸せと甘ったるいラブを唱える曲は、全部、まさにコスプレのように開放的な機能があるようなきがする。
去年ド不景気のなかで、ディズニーの売上はすごかったそうだけど、ディズニーへのチケットはハッピーな世界に入る鍵みたいなものだからじゃないのかしら。
結論を言うと、コスプレといい、ディズニーといい、両方厳しい現実からの一時的な逃げ場であって、逆にその結果は現状の社会制度を守ることだ。
そうね。
週末が終わると、月から金まで、少年達はスッピンの兵隊に、大人達は働きマンに戻る。

外国人監督が見た東京(1)

 最近「Cherry Blossoms – Hanami(Kirschbluten – Hanami) ドリス・ドーリエ監督、2008」という映画を見た。日本では未公開であるらしいが、この映画を作ったドリス・ドーリエ監督は「愛され作戦 Keiner liebt mich」(1994)という映画でアジアでも注目されたといえる。「Cherry Blossoms – Hanami」はタイトルからわかるように、サブタイトルが「はなみ」であり、映画のなかで半分くらいは日本が舞台となっている。特に監督が、日本から発信されたダンスのジャンルであるBUTOH(舞踏)に興味を持っていて、踊りの場面が適所に使われていることも興味深い。

 

 映画の主人公は二人の老夫婦で、Trudiは病院で夫Rudiの死が近いことを告げられる。夫にはその事実を隠したまま、子供たちに会いに旅立った旅先でTrudiは急死してしまう。一人になったRudiは、生前妻がBUTOHダンサーの夢を抱き、日本に足を踏みたかったことを思い出し、妻の代わりに息子Karlが住む日本に渡る。そこでRudiは花見で賑わう公園で踊るBUTOHダンサーの少女に遭遇し、彼女とともに妻が見たいと願っていた富士山を訪ねていく。旅先でRudiは病気が悪化し、高熱や痛みに苦しむ。夜明けに目が覚めたRudiが窓を開けると、何日も曇っていて見えなかった富士山がきれいに目の前に写っていた。Rudiは化粧をし、妻の着物を着て富士山に近い川辺まで急いで行き、心を込めてBUTOHを踊る。まるでそこには妻Trudiが一緒に踊っているようだった。そのままRudiは倒れて息が絶えてしまう。


 日本はアジア諸国の中で早くも経済的発展を遂げた国であり、外国映画の中でも映画のロケ地としてしばしば登場する。そのイメージは様々な監督の目を通してあらわれるが、着物を着た芸者の美しい国、能・文楽などの伝統文化を守っている国などもあれば、最近では様々な社会問題を抱えている国としても描かれる。

 この映画で描かれる日本はさくらと富士山のイメージが強調的であるといえる。さくらは老夫婦の死に関連し、儚いものとして扱われる。また、高層ビルが並ぶ東京の街と風俗店やキャバクラが続く新宿の歌舞伎町も登場する。日本語を知らないRudiが一人で彷徨う繁華街で、客引きに連れられて入るソープランドやダンスバーは、従来から外国人監督によってよく使われていた日本のイメージの一つである。

 日本は昔から火山の国や吉原を象徴とするセックス王国としても認識されていた。その中で東京は「無秩序で雑然として薄汚いところ」 という混沌とした都市として認識され、早くも近代化されたアジアの大都市の東京はソビエトSF映画の未来都市として登場した こともある。なお、雑踏する駅舎のフラットフォームで出勤電車の人々を押しまくる押し屋は異様な光景を提供し、東京は混乱する大都市としてよく描かれていた*1

 雑踏する都市・東京は、新宿と渋谷に足を踏むとよく分かる。新宿と渋谷の人ごみは混雑する東京の一部をあらわし、人ごみで賑わう新宿の東口交番前、アルタビルの周辺は週末になると、様々な人々を目撃することができる。また、渋谷駅前のスクランブル交差点では若者の群集がクロスする横断歩道を渡り、あらゆる映像を流す駅前のQFRONTビルの大型ビージョン・Q’SEYEは渋谷を象徴する中心的なオブジェともいえるだろう。

 
Flickr舞蹴氏が撮ったQFRONTビル〉

 

 「Cherry Blossoms – Hanami」のなかでも東京はセクス王国、雑踏する大都市のイメージが半分くらいである。BUTOHダンサーやさくらと富士山は、監督が日本に神秘感を抱いているようにも思われ、そのイメージは前者とは異なる。

 ここでは「Cherry Blossoms – Hanami」をはじめとし、いくつかの映画を取り上げ、そのなかに描かれた日本(特に東京)のイメージについて考えていきたい。(つづく

詳しい話は次回からなのでお楽しみに!

*1:佐藤忠男「アジア的大都市TOKYO−外国映画のなかの東京」『東京という主役−映画のなかの江戸・東京』講談社、昭和63年p216.参照。