言い方と人間関係を考える


by よん

 こんにちは、年末年始病から立ち直ったよんです。
 母国にしばらく帰っていたので、そのことについてちょっと書きたいと思います。


旧正月のあたりに韓国に帰った。正月に帰ったのは日本に来てから初めてのことだった。今回の帰国も3年ぶりくらいだけど。
正月を避けたいとずっと思っていたが、帰国を延期せねばならない事情が突然起きてしまい予期せぬ帰国になった。
テレビで放送されている正月の特番のコーナで「正月に親戚に聞きたくない言葉ベスト5」が面白かった。韓国も日本と同じく普通正月に家で親戚がみんな集まる。
その番組のなかで独身男女を対象とした調査では不景気の韓国を反映しているように、就職に関する言葉も浮かび上がった。

例えば
おじさんから就活浪人生のおいへ

就職はしないの?うちの隣の子は大企業に一発で就職できたらしいけど
「……」


そのほか、結婚していない30代以上の女性は次のような言葉を聞きたがらない。

おばさんが30歳を過ぎても結婚していないめいへ

休日なのにデートする相手もいないの?」
「……」


決していやみではない。その言葉には親戚という血縁関係に基づいた立場から心配という感情が表れている。自分の子息が出世すると自慢も惜しまない親たちもたくさん存在する。心配と干渉と自慢などの様々な感情がいじり混ざる。ただ聞くひとはきつい。すぐ流してしまう無神経のひともいれば、傷つくひともいる。だから正月を避けたいひともいる。うるさい!と叫びたい。

その他にも余計なこと、つまり大きなお世話をするひとが日本より韓国には多い。なお、ストレートに感情を表す言葉を言うひとも多い。
日本では自分の感情を表によく出さない人が多いと感じた。
私は日本に来て6年くらいだが、言葉を発するとき、控えるときが増えた。今までそういう言い方はひどいとか意外とか、相手や周りが違和感を覚えた経験があったからだと思う。傷つくのは私もいやだから、相手を傷つけないように気を遣わなきゃと思ったのは今までの人生のなかから学んだことかもしれない。

そう思っていても私はたまに自分が思ったままにすぐ言葉を発するときが少々あって、友達から注意をされたことがある。冗談混じりできつい言葉をいうときもあった。「この店まずくて二度と来ない!」とおごってくれた友達の前で言ってしまったり。ただそれは正直+冗談混じりの大袈裟を表した言葉で、気楽で親しい関係じゃないと言えない。友達にも生のままの感情(特にマイナスな要素が入ってる言葉)やこいつ、あいつを言い合える相手は気楽な関係で成立する。一種の甘えが表れているのである。でも確かにその隣に初対面のひとがいたら違和感を覚えるかもしれない。

心に傷を負いやすいひとはどこの国にも存在する。傷つけるような言葉を発するひとも同じだ。でも最近友達に注意されて思ったことは、何を控えて何を発すればいいのか、私の今までの発し方がひとに迷惑をかけたかもしれないということをもっと慎重に考えはじめた。親しい関係からこそきつい言葉も言い合える、しかし、甘えに基づいた行動は最初からは通じない。
それより、人との関係を築くことに時間がかかるのであるから、甘えられる関係になるまで自分をちょっと控えなければならないかもしれない
早く仲良くなるひともいれば、時間が経ってようやく仲良くなるひともいる。それは日本だけではないと思うが、私は日本に来て仲良くなることに時間がかかると思った。それは私の接し方と性格に問題があるかもしれないが、私は日本で最近人間関係についていろいろ考えられたと思う。


最後に、韓国でミュージカルを観劇したときに思ったこと。ミュージカルは「ウェディング・シンガー」という演目でブロードウェイでも上演された作品で、その韓国版だった。俳優たちはとことところに観客を参加させ、最後には観客を全員立たせて騒がせた後、スタンディング・オベーションで幕が降りた。観客参加型とその騒がしさ、韓国的だと思った。このような特徴は韓国で行われるミュージカルだけの特徴であるそうだ。一瞬騒がしくて余計なことするなと思ったけど、楽しかった。


日本にいると、たまに余計なお世話されたくなるときがある


みなさん、人間関係、うまく築いていますか

年末年始病

12月と1月はあっという間に過ぎてしまう、いや、そう感じるだけかもしれないが。
すべてのことがあたふたと、追い付くことができないほど、一日が一週間が一ヶ月が過ぎてしまう。
慌ただしくパノラマのように流れる記憶、飲まなきゃと気合いが入った飲み会の断片。
自分をせかすことによって何かに取りつかれたように過ごしたと気づくのは、今ごろ。
それは相当な無気力を伴っている。その無気力に結構長い間引きずられてしまう。


12月の最後、旅行に出かけていた。友達に進められて訪れた遊園地「富士急ハイランド」。
自らの判断でこのような遊園地に行ったのは、人生で初めてだと言ってもいい。
世の中の乗り物への恐怖により私は自転車も乗れない人間になった。
絶叫マシン」なんか乗れるわけがない。
ただ、友達に連れられて訪ねた遊園地で恐怖に駆られた何年前の記憶がすごく昔のように思えた。
恐怖を克服する機会を作ってくれると、友達は言った。
「自分を克服しろと、そんな理由で恐怖の乗り物に乗る必要がある?」と思いつつ、
自分を任せてみようという、好奇心も生じていた。

・・・・・・結果は無惨だったが・・・・・・

ふじやま」(ギネスブックに載っているゼットコースター)から降りた瞬間、私は二度とここには訪れまいと思った。

でも、、、その騒ぎは思い出になった。

山梨で二日間を過ごした。温泉に入り、河口湖のまわりを歩いた。
何時間も歩いたせいで、靴下がぼろぼろになった。
だらだら、だらだらと歩いたり、休んだり、喫茶に入ったり、旅行は無計画の極まりだった。
が、それで頭がすっきりしたような気持ちになれた、と思った。
どこに行き、どこの何を見物し、その地方の何を食べ、そこのどのホテルに泊まり、次のスケジュールは何で・・・・・・
そのような計画は何も立てず、二日目はただ歩き、また、歩いた。
その計画のなさにあっけないと思いながらも、気持ちがよかった。


しかし、旅行は旅行、すぐ終わってしまう。

1月の最初を友達の家で過ごして、ようやく自分の部屋に戻った。
その日から私の体は言うことを聞かなくなった。
テレビでは正月の特番をやっていて、新年になったことを祝っている。
しかし、何が祝うことなの?年末年始は死ぬまで繰りかえる年中行事みたいなものではないか?
この祝祭のような雰囲気が現実から逃れる機会?
また現実に戻らないとならないでしょ、という自分が顔を出しはじめた。

それから一週間も二週間もやる気もなにも起こらない。
人々は祝祭が好きだ、それは現実を忘れさせてくれるの?
現実に戻らないとならないときに、より時間がかかって、ぐずぐずと現実への復帰を延ばしてしまうようになることもあるでしょう。

正月の騒ぎが終わる頃、バレンタインのチョコの広告が出始め、また騒がしくなる。イベント好きのこの世の中(日本?)旧正月は2月14日だからそれまで私はだらだらすることができるのではないか、でも自分を責める必要がある・・・・・・?

これいつ治るのかな・・・TT

不思議な函館、懐かしい札幌、grittyなベルリン

開けましておめでとうございます。しおです。今回はお正月ではなく、その前の旅行について話したいと思う。

今年のクリスマス休みは北海道で過ごした。JRの函館フリーきっぷを買って、電車で函館まで行って、その後は札幌にも行ってきた。函館を訪れるのが2回目、札幌も2回目。両方も初めてに行った時は夏だったが、今回は冬。

やっぱり、函館は冬の街だなーと、函館駅に着いたらすぐ思った。街が雪で覆われると函館の魅力が見えてくる。

金森倉庫の辺りは感動的でした。今年のクリスマスツリーはカナダのハリファックス市から輸入されたらしいけど、正直言うとカナダ人の私はあんな綺麗な木を見るのが初めてかもしれない。点灯は素晴らしかった。


(函館の夜景 - Photo by Flickr user mamacharikinoko)


(相馬株式会社 - Photo by Flickr user mamacharikinoko)

それに加えて、背景にあった函館の特有な建築が西洋人の私にとってかなり不思議に感じた。特に元町の辺りは、前時代の倉庫が並ぶ出身のモントリオールの港周辺と似ているところも多い。両都市も、雪の下の静かさと、歴史にあふれている建築、その特徴的な組み合わせが深い雰囲気を作る。


(モントリオールの港の辺り - Photo by Flickr user PnP!)


(函館の金森倉庫 - Photo by Flickr user mamacharikinoko)

とは言っても、函館の建築の原点は地球の反対側にある。土地は日本の一部にすぎない。金森倉庫から一歩離れると、その現実をよく感じる。少しずつ、西洋にいる幻想が崩れる。慣れてきた日本でもないが、懐かしい西洋の街でもない。

建物は上半が丸で百年前のアメリカにぴったりだが、下半は間違いなく日本の木造の家屋。進化のずれた道に進んだ妙に綺麗な動物みたい。


(進化のずれた道に進んだ妙に綺麗な動物みたい - Photo by Flickr user mamacharikinoko)

それが、西洋人の私にとって函館の不思議さ。

次に訪れた札幌は、歴史の面でも、地理の面でも、函館とだいぶ違う街。東京のゴチャゴチャの裏道、その狭くて迷いやすい路地、そのあちこちで残っている昔の跡、今まで慣れてきた日本の都会とは別の構造。逆に札幌は、北米の街と同じように、街路が四角い形、街全体の構造が格子状。車の街とも言える。特に冬だと、トロントやオッタワなど、カナダの街っぽい。

1857年には、札幌にはまだ7人しかいなかったらしい。現在の人口は200万人に近いが、そのほとんどは地方から引っ越してきた。札幌の人口は増えていくのに比べて、北海道全体の人口が減ってきたという。

こういう札幌は、建築的に綺麗だとは言えないだろうし、街の形から見ても別に面白いとは言えない。東京と比べて、道に迷うことはほとんどないし。車があれば便利な街だろうけど、私は運転もできないし、しかも車きらい。


(すすきの - Photo by Flickr user mamacharikinoko)

でも車が嫌いな私にとっても、札幌に憧れるところもあった。函館より、札幌のほうがずっと「都会」に見えるのもその一つ。ささきのの周りはとくにそう感じた。

英語では「gritty」という形容詞があるけど、どこまで探しても日本語には同じような意味の言葉は見つからない。直訳すると、(英辞郎によると)「砂利の入ったような」や「ザラザラする」など、「ほころだらけの」みたいな文が出てくるけど、私が伝えたい気持ちとだいぶ違う。

私に取って典型的な「gritty」な街はドイツのベルリン、特にその東の方。ひびの入った壁、前時代共産主義東ドイツの建物も並んでて、戦争の跡もあちこちに残ってる状態。綺麗な街ではないのだが、かなり感動的。道で散歩するだけで、その歴史的な重さを感じるわけ。そして、その重い雰囲気のおかげで、自分の存在の小ささも実感する。

その反面、ベルリンはアート系な街、音楽の街、クリエイティビティの街とも言える。「TACHELES」というギャラリー・カフェは東ベルリンのその典型的な例。10年前に初めてベルリンに行ったときに、どこかのそのようなカフェに入って、そこで、その歴史の重さに囲まれている環境で、コーヒーを飲みながら雑誌を読んだ、という懐かしい思いでがある。


(TACHELES - Photo by Flickr user inky)

grittyな都市環境の中で、クリエイティビティが生まれる。ベルリンのエレクトロニック系音楽はそういう環境の成果の一つ。

でも「gritty」という言葉を日本人に説明するために訳そうとすると、どうしても「汚い」という別の意味になってしまう。お寺や神社以外、日本人は古い建物を壊して、新しくて「綺麗」な建物を作るのが好きなわけで、ベルリンにあるような中途半端な、歴史的で前から残っている建物は少ない。「汚い」イコール「よくない」という考え方がその背景にあるかも。確かに、日本の一番「gritty」なところは社会に捨てられたところ。軍艦島などみたいな廃墟。


(日本の「gritty」 - Photo by Flickr user snotch)

正直言うと、私はだいぶ前からそのようなところの雰囲気を憧れている。東京はかなり面白い街のだが、「gritty」なところは少ない。しかも、下北沢みたいなそういうgrittyなところを都市が壊そうとしている

でも函館も、札幌も、規模が違うけど両方もそれぞれなりの「gritty」なところもあった。札幌の場合は、歴史がかなり短いからこそ、他の日本の街とは違ってまだ定着していない状態。でも不思議なことに、外から見ると大した建物ではないのに、7階まで登ってみると素敵なカフェもある。同じ四角い形のカナダの街にはありえない発見のだが、これはやはりカナダではない。初めてベルリンに行ったときのカフェ冒険を思い出した。

函館、札幌、ベルリン。モントリオール出身の私は、今回の旅行、都市環境の大切さを痛感した。

暴力団体の美学:やくざvs MAFIA

By しらふ

イタリアの娘である私は日本とイタリアが共通している問題、つまりについて書いてみたいと思う。
最近『Tokyo Vice*1という本を読んだからか、そのテーマにすごく関心を持つようになっていろいろ考えてきた。
そもそも、タイトルの暴力団体の美学ってどういう意味なのか。
それが日本の漫画、ドラマや映画で登場するヤクザ者の描き方と関連している。で、今回のポストに特に注目を当てたいのは主人公がやくざであるドラマだ。例えば、『My Boss My Hero』と『ごくせん』。
国にいた時は日本語の聞き取り練習としてよくドラマを観てた私にとって両方の作品は面白かったけど、やっぱりちょっと考えてみると違和感を覚えてしようがない。
(両方がドラマになる前に、韓国映画だったり漫画だったりするという話はおいといて)主人公が伝えている価値観はどういうものなのかみてみよう。
前者の主人公は長瀬智也が演じる、ある親分のバカ息子だ。名前が榊真喜男。
後者の主人公は仲間由紀恵が演じる「大江戸一家」の親分の(馬鹿強い)孫だ。名前が山口久美子。うん、ヤマグチ・クミ(こ)。アレとただの類似音かな?!
とにかく、真喜男と久美子がいろんな面で似ている:暴力団体の後継者だが、心はやさしい、弱い者を助けようとする、モラルに溢れている。そして、チョイおっちょこちょくて、なんか可愛い。
つまり二人ともカリカチュア的なキャラクターであるものの、いわゆる良い者の質性が全部しっかり身についている。
ところが、なんだ!

しかも自分の身分や家族のことを誇りに思っている!


The Hatena-gumi by Flickr id: Dunechaser

両方のドラマは性善説まみれのヤクザ話なんだし「ごくせん」1か2(よく覚えていない)には久美子先生は自分の学生を「悪い」やくざから庇うという話もあったような記憶する。。。
悪いやくざ 良いやくざ が存在するってこと?だったら、塩辛い塩と塩甘い塩もありと言えるでしょう!?!
ナメンナ
もちろん、大人達がそのドラマをみれば、「こりゃ〜あくまでフィクションだから、話しても意味ないっつうの」という反論はしてくるかもしれない。しかし、ドラマを見る人はほとんど中高生だから、かれらに「21世紀にやくざは義理人情の世界に生きている者ではない」と、誰か説明してほしいね。。。
メディアは、特にテレビ、暴力団体が絡んでいるニュースはあんま報道しない気がするし。
じゃイタでどうなんだと気になる人もいるでしょう?!
イタリアのマフィアはさ義理人情なんて知らないわけってだれでも分かっている。日本の文化から生まれた概念だからじゃなくって、マフィアはお金を欲するもんだと子供も把握しているからだ。(なのに、そんな世界を憧れている人はいるということは別の問題。。。)
私の国にマフィアって政治界、経済界、そしてひどいところではもっと日常的なレベルでも広がっているということは一般常識のようなことだ。
ちょうど去年『Gomorra』という本に基づいた映画は出たけど、日本人に観てほしい。それは、「イタリアにマフィアはこんな酷いなんだ」って言わせるためじゃなく。。。むしろ、「日本のやくざについてもこんな深見のあるドキュメンタリはプロデュースされたらいいな」と思ってほしいため。
もちろん、日本でも勇気のある記者や監督などいらっしゃるけれど残念なことにその人々が書いた、又は作った作品はあまり知られていないと思う。だからか、一般の人は「まーお金持ちじゃないから、ヤクザなんて僕/私と関係ないもんだ」って信じちゃうようになった。
それじゃ危ないと思う。
「みんなよ、怖がれって」いっているんじゃないけど、せめて「危うい者が日本にもいます」と。。。日本が平和主義だって誰かが作った単なる神話ですと。
そして、さっきのドラマの話に戻るとけど、イタリアには同じように可愛くて、おっちょこちょいマフィアの娘のようなキャラクターがドラマの主人公にされたとしたら。。。大騒ぎになると思う。
冗談じゃないわぁと多くのイタリア人は言いそう
毎日どんだけの人殺されたり、脅かされたりしてるのに「ふぁいとおお。。っお」っていう場合じゃなかろう。

nagaku nacchatte sumimasen

*1:著者はアメリカ人のJake Adelstein氏である。彼が20年前くらい上智大学を卒業して、読売新聞の記者になった。長年社会部に勤めて、日本の闇の世界を報道してきた方だ。

お姫様と好青年の物語

 byよん

 静岡県舞台芸術センター(SPAC)に行ってきた。そこの特徴は山の上に劇場や稽古場をもうけた施設ということだが、その広い空間には茶畑も広がっている。秋の空とその茶畑を見つめながら空気を吸うだけで気持ちがいい。

 

 そこで開かれた学会の研究発表のひとつのなか、『旅とあいつとお姫様』(演出:Teresa Ludovico)という演劇が取り上げられた。座・高円寺という劇場で私が何か月前に観劇した作品だった。

 演劇について論じる気はない。ただ、私はその演劇を観た後、ずっと怒ったような気持ちになっていた。私の気持ちとは関係なく、研究発表でその演劇に関する評価は非常に高かった。
それが何だか気に入らなかった、たぶん。

 この演劇のあらすじを簡単に紹介すると、魔法に掛けられ悪魔と交際中のお姫さまは求婚しに来る青年たちをみな殺し、その首を庭園にぶら下げる悪趣味を持っている。お姫さまを道で見かけた一人の純粋な青年はお姫さまに一目ぼれし、求婚するためにお城を訪ねるが、お姫様が出す謎を解けないと結婚はできない、そして殺されてしまう。悪魔と組んで絶対解けない謎を出すお姫さまだが、心優しい青年の隣には彼を助けてくれる友人がついていた。紆余曲折のすえ、謎を解けた青年はお姫様と結婚に至り、お姫様の魔法も解けられ、二人はラブラブな人生を送るようになった。めでたし、めでたし……

 この話、アンデルセンの童話とノルウェーの昔話を基にして作った話だった。イメージ的な部分や音楽、俳優たちの演技など、悪くなかった。研究発表でもっとも評価された点は、児童劇にも関わらず、劇のなかで暴力やセクスの問題が取り扱われた点だった。

 しかし、考えてみよう。そのようなめでたい話、あまりにも典型的で時代遅れの話ではないだろうか?綺麗なお姫様と純粋な好青年の結婚で終わる陳腐な結末と、善と悪をはっきりした話の構造。新鮮だと思える要素はかたちの部分しかなかった。内容はどうでもいいの?

ちょっと、興奮してしまった。

 第 一、結婚で終わる劇の結末は、現在の日本社会の流れともマッチして考えることができる。不景気が続くなか、活性化させようとしているビジネスの一つが結婚事業であると思う。確か昔より結婚を望んでいない人が多く、結婚ができない人も多い。一人で暮らすと、さびしい老後を迎えるかもよと、人々を軽く脅している話もたくさん聞く。「婚活」という新しい造語が流行っているくらいだ。ただ、結婚って必須事項ですか?
 大げさにいうと、イタリアの演出家まで呼んで、子供にこの社会の古いイデオロギーを注入させようとしているのではないかと、ちょっと気持ち悪かった。敏感に反応しすぎたかもしれない私にとっては、子供たちにより多様な人生のやり方を教えるべきではないのかと思った。人間は結婚を選ぶ自由があるし、その他のかたちのものを選ぶ自由も持っている。結婚という制度が、好きな人と結ばれる一番いいかたちではないし、それは決まっていないのだから。

 第二、綺麗なお姫様とハンサムかつ心優しくて純粋な青年のカップルは、まさに現在の社会の思想を反映していると思う。社会が望む美しい男女は社会が望む綺麗な格好をしている。美人・美男というわけだ。「シュレック」(Shrek、2001年)という映画が公開されたとき、結ばれた醜いシュレックとお姫様のカップルに熱狂した人はたくさんいるだろう。子供のときから社会が決めた綺麗・美しい・清潔などが優先される環境で育てられた子供たちの美意識は社会が望むように形成され、社会の望み通りの消費をする人間として育つだろう。このような概念は人間を無視したり、差別する社会のイデオロギーの一部として機能する可能性を持っている。多様さのなかで自分の個性を見つけられる環境(それはどういう環境なのと疑問を抱きながらも)を作ってあげることはこの社会の未来を考える上でも必要なことではないだろうか。

 話題を呼び起こしたこの演劇は、来年再演される予定だという。
 それはその結末通り、「めでたしめでたし」なのだろうか