外国人として、はてなのどこが面白い?

どうも、しおです。

ちょっとこのブログの歴史的な話から始まるけど、3人の外国人が日本語でブログを書こうとすると、どうしてはてなダイアリーにしたの?っていう、聞かれた質問ってわけじゃないけど、聞きたい人もいるかなー、と最近思った。

で、実はね、はてなにするってことは僕の考えだったよ。最初にこのグループブログを一緒にやろうって考えていた時に、どのようなブログを書けばいい、という点についてはよく迷っていた。つまり、どのブログサービスを使えばいい、ということ。

そこで、今回のエントリーのタイトルにも書いたように、「はてなダイアリー」に決めた。それは私の考えだったので、どうしてはてなにしたか、ということについて説明したいと思います。

実はよく考えると、「ブログサービスを決める」ことは、技術的な話はともかく、「コミュニティを選択する」ことと近いとも言えるでしょう。つまり、例えばはてなダイアリーにすると、当然人気なエントリーになるとはてなダイアリーのホットエントリーになって、色々なはてなのページ(はてなダイアリーはてなブックマークのトップページなど)に出てくるわけ。そこではてなのユーザーがだんだん僕たちのブログに訪問して、コメント欄やはてブにコメントを書いてて、自分たちのブログで反応の記事も書く。

このブログを始めたときに、そういう流れに目指していたわけ。だからはてなダイアリーにした。

でもそういうことは確かに、他の日本のブログサービスでも可能なわけ。じゃ、はてなは何が特にいい

以下にいくつかを並べてみた。

1) 日本社会の裏にあることを覗くことができる。

これは、一年半ぐらい前にid:kusamisusaさんというはてなのブロガーのエントリーを英語に翻訳したときによく感じたこと。id:kusamisusaさんは『「うわべだけ規則に従って、規則違反はコッソリやるべし」という規律は、「健全な社会」にとって極めて重要である。((炎上と、< 他者>のメンツを立てること)』(今プライベートモードに設定されている)というエントリーで、「うわべ」と「コッソリ」という(あの時に始めて見た)日本特有の概念を説明して、それからインターネットと炎上についてこういう細かい観察をした:

インターネットの普及が、「うわべ」と「コッソリ」の間を、パブリックとプライベートの境目を、奇妙な形に捻じ曲げてしまった。炎上は、この捩れがもたらす混乱として在る。

実は、英語圏のブロガーの中でも、日本のインターネット文化や炎上などについて色々な議論があるけど、id:kusamisusaさんがこの上に書いた観察はいかにも日本社会の「裏」にあること、というふうに私は思う。つまり、海外の本やブログをどこまで読んでも、「うらべ」と「コッソリ」の間に何があるなんていう話当然出てこないわけ

一方で、はてなダイアリーには、こういう話があふれている感じがする。他の僕に印象的だった例は、id:kohekoさんの「「今何してるの?」という質問は禁句となっていた」(英訳)、id:boiledemaさんの「人間までカンバン方式」(英訳)、id:ta26さんの「どうしてここまで『ゲゲゲの鬼太郎』は人気があるんだろう」(英訳)、id:michikaifuさんの「毎日新聞問題は「セクハラ問題」であるとの認識」(英訳)など、数えられないほどいっぱいある。もちろん他のブログサービスでも日本の「裏」にあることについて書いている人がいないわけではないですが、はてなダイアリーのほうがはるかに多いと思う。


2) 世界についてのセオリーを発想するブロガーが多い。

この「世界についてのセオリー」というのは広い意味で使っている。つまり、「今日はこれをした」や「今日の新聞にはこういう話があった」など、日常的な話ではなく、「こういう現象はこういう背景から生まれてくるかも」というような、まわりの世界についての「セオリー」とも言えるような深い内容のある記事、という意味。例として次の二つが頭に浮かぶ。

一つ目はアンカテのid:essaさんの「キャズムの向こう側」という記事。上のid:kusamisusaさんの丁度一ヶ月後にこの記事を翻訳したけど、id:kusamisusaさんの記事と同じように、かなり印象的だった。「単細胞生物と多細胞生物」、「飼い主と犬」、それから「キャズム」という幅広いメタファーを使って、id:essaさんがインタネットのアーリーアダプターと他の人を比べて、こういう予言をした:

人類全体に対するネットの普及率がある閾値を超えると、全ての人にキャズムを渡ってもらおうと無理しなくても、アーリーアダプターだけで相当な人数になり、そこに充分な複雑さが生まれ生態系が回るようになる。

その世界を認識できる人とできない人は、それぞれ別の世界に住むようになるかもしれない。

言語や文化、歴史などの壁もあって、日本語のブログを読むと当然疲れるわけ。僕は最近まで、読むことに止まらず、英訳もして、文脈も付けて、日本語のブログにある話題を海外の人に紹介していた。それをやりながら色々な面白いことが分かってきたけど、やっぱり辛い日もあった。

どうして2年間それを続けたかというと、id:essaさんの上のような記事の影響が大きかったわけ。考えてみたら分かると思う。自分の生まれてきたところから概念的に遠く離れてて、言葉も、参考も、内容も馴染みではなく、理解しようとしてもどうしても分からない場合もある。それはもちろん1)で書いたような日本の「裏」のこととつながっている。つまり、例えばid:boiledemaさんの「人間までカンバン方式」を分かるために、最初から「派遣」という現代の言葉が分からないともちろん理解できないわけ。

でも、id:essaさんが書いたような「セオリー」は、もちろん日本のことに限らない。世界の人に対応するわけ。でも、id:essaさんの連想の流れ、その「セオリーを発想すること」自体は、やはり日本っぽいとも言えるでしょう。(少なくとも、アメリカやカナダのブログの中では、こういう記事は一回も見たことない。)つまり、コンテンツは対象として日本に限らないけど、スタイルはやはり日本特有

そういう「セオリー的」なエントリーも、はてなダイアリーには多い気がする。もう一つの例としては、id:Wakiさんの「iPhoneの面白さとリーマンの破綻は似たようなもんだと思う」という記事。id:Wakiさんはこの記事で、「iPhoneが世界的に注目されているということ」と「リーマン・ブラザーズが破綻したこと」、この二つの間には共通点がある、という立場を取る。共通点は「不自然から自然へ」という傾向、つまり不自然な金融から、自然なWiiiPhoneへ、ということ。これはまた、軽い意味で「セオリー」とも言えるでしょう。


3) コミュニティの規模は人間的

3番目のこのポイントははてなのコミュニティに関すること。はてなダイアリーは全体として、いっぱいのニッチに分けられて、ニッチの規模が小さい、ということはよく感じる。これは(アイドルや芸能人のブログを除いて)日本のブロゴスフィアについても言えることだと思うけど、はてなダイアリーの場合には本当に特徴的、のではないですか。

HatenarMapsの地図を見るとそれはよく分かる。id:finalventid:takerunbaid:shi3zなど、有名なブロガーもいるけど、全体像としてはいろいろな小さいニッチがあって、結局は有名なブロガーよりニッチの方が形に重要。これは多分アメリカのブログと比べると、まぁアメリカのブログについて詳しくないけど、少なくとも例えば「political blogs」を見ると、二つのグループに分けられっちゃう


アメリカの政治的なブログ (Ethan Zuckermanのブログ


はてなダイアリーの地図 (HatenarMaps

これはあくまでも私の印象だけど、この「アメリカのブログが二つの大部分に分けられる」ことと、「日本のブログが色々な小さいニッチに分けられる」こと、というパターンは、ブログだけではなく、色々な面でも見えるアメリカと日本の違い、というふうに思う。

でもとにかく、「コミュニティ」の感じが強い。はてなのユーザーの数はある意味大きい(TopHatenarによると18万人9万に越えている)けど、結局、HatenarMapsでも見えるように、人気のブロガーは100人ぐらいいて、ダイアリーをしばらく読み続くとその有名なブロガーの名前が覚える。でもそういう「有名」な人は、まぁ本当に有名な人(梅田さんなど)もいるけど、確かにそのほとんどは「芸能人」のような有名なわけじゃない。

だからこそ、普通の人でも、参加したら何かできるかな、って感じる。僕にはそれが魅力的だった。

そしてコミュニティの雰囲気には、確かにはてなブックマークの影響もある。自分のエントリーを書くことだけではなく、お互いにブックマークしたり、そのブックマークにコメントも付けたりするわけ。西洋のブログと比べると、やはり日本語のブログのコメント数のほうがずっと低い、というのは間違っていないと思うけど、それはコメントがないわけではなく、別のところに隠れているからだ。もちろん例えばdeliciousやredditなど、英語のブックマークサービスもいっぱいあるけど、コミュニティ作りの面からみると、やっぱり違うわけ。



この3つのポイントの他には、色々なはてなの面白いところもあるわけだけど、上に書いた点は僕には一番魅力的だと感じる。

で、最後に、はてなダイアリーという話で、今回は(特にはてなユーザーの)読者に聞きたいことがある。僕達3人でこのブログを書いてて、お互いに応援するおかげで、このブログを続けていきたいと思うけど、やはりできるだけ他のブロガーとつなげていきたい。特に他の日本語で書いている外国人がいたら、連絡したい。

でもいるのかな?もし読んだことのある読者がいらっしゃいましたら、ぜひぜひ教えてください。

日本の文化を知っててください!

最近世界中有名な雑誌の写真家は取材で日本にきて、いろんなところで撮影しに行く前に、必要な許可をもらうのに私は電話したりしてとか、彼を手伝うことになった。
うらやましいだろう?うん。うらやまなくてもいい。
毎日面倒くさいことばっかりだ。
なぜかというと、日本人は保守的ではなく、他国が無くなればいいと思うだけだからだ。無くなれば自分の秘密を暴く必要もなくなるし、やっかいな質問がされないですむと思ってるし。そうちゃう?
だって、誰でも知っている雑誌の出版社は日本について本を出す予定があって、せっかく日本の文化をうまく紹介したいといってるのに、「すみません、外国の方はいつも日本の文化を間違えて伝えるのでお断りします」と?!
っはぁ〜? 
じゃ、その誰でも知るべき文化を説明してくださいよ。面倒だと思ってるだろうから、説明しようともしないとわかってるけど、悪いのはどっちか?こっちは長年この国の文化や言語を一生懸命勉強して、やっとその文化を正しく説明してくれる人がみつけたと思って、そしてバイトでその正しい知識を外国に伝えることができるのに、ちっぽけの理由で断られる。
チッ
じゃさ、海外で「日本はすしと芸者だけだ」と思われても、それでいいのか。
それは良くないから、論理的な理由がないくせにランダムな断りするだろう。
でもね、お母さんに見せたくない秘密のダイアリを持つ12歳の女の子みたいにふるまうのを、いい加減にやめてくださいよ〜
その「正しい」大和文化を知りたい「変な外人」は山ほどいるよ。大げさな丁寧さはいらないけど、もうちょっと心を開いて、謙虚で、彼らにそのニッポンタマシイを教えてあげればどうだい?そんなに大きな損になるのかい?
まさか。。。あるイスラム教の国と同じように、写真されるとココロガ奪われると信じてないよね〜


どうしてこのイメージとこの色を選んだのか聞かれるとお断りします。秘密です。

並ぶ、並ばない? byよん

甘いものが食べたい!!!自分で買って食べたいとはめったに思わないが、たまに甘いものが食べたいという欲求が目覚めてくるときがある(春の食欲増加?おそろしい(-.-;))。

久しぶりにドーナツが食べたいと思った。でもうちの周りにはドーナツ屋がない。私がわりとよく足を運ぶ渋谷や新宿にはドーナツ屋がいっぱいあるけどな〜。ミスドがうちの近くにできればいいのに、帰る途中にデパートでも寄ってみようか、ああ、たぶん混むだろう、めんどくさい(≧ω≦)。。。。。。


めんどくさい気持ちを抱えて、私は近所の鯛焼き屋を通りすぎていた。「鯛焼きもいいだろう」と近づこうとした瞬間、十人くらいの並んでいる列に目がとどまった。「ああ、待たなきゃいけないのか」と思ったら、食べたい気がなくなってしまった。その日はドーナツ鯛焼きも食べれなかった。

数日後、仕事があって渋谷に寄ることになった。生徒さんとの待ち合わせ場所に向かって道を黙々歩いていた私の目に、ちょっと左側の人だかりが見えた。それは並びかたを直線に変えると、何十メートルに及ぶくらいの列だった。みんなくねくねと長い列を作り秩序正しく並んでいた。何だろう、この列?
看板を見上げるとクリスピー・クリーム・ドーナツという文字が目に入った。ずっと前友達と一緒に行った新宿の店舗が頭に浮かんだ。クリスピー・クリーム・ドーナツが新宿に進出してまもなく、ドーナツが好きな友達と新宿店に向かったが、遠くで見てもその列は長蛇で、並ぶ勇気はまったく湧かず、二回も諦めて店を後にした覚えがある。ああ、クリスピーなのか。いつ渋谷にもできただろう。



Flickrtokyo ayanoさんが撮った「クリスピー・クリーム・ドーナツ」の商品


ドーナツを食べるためにこんな列ぶことができるなんて忍耐強いなぁ〜みんなこんな長い時間を費やして美味しいものを手に入れるだろうか。私は忍耐力がないからやめよう


いつも人がたくさん並んでいる店がある。美味しいかな、何か個性があるのかなと、入ってみたいと思うけど、入ることができない。そんな列ぶことはちょっと苦手。並ばないと美味しいものを手に入れることができない(TT)

美味しいと思う店にそんな並べますか?」と、ある人に聞いた。
「ウゥム、たぶん誰かを喜ばせるために並ぶときは可能でしょうか。プレゼントを買うために並んだりとか。
それと、一緒に並んでいる人だちといろいろしゃべられるのがいい人もいると思います。一人ではないという集団のなかでの自分、共通の空間にいるということで感じる安堵。たぶんそういうものじゃないですか。
また、美味しい、特別なものを獲得できたとみんなに自慢したい気持ちもあると思います。それでまた共通の話題を持つことができます。」
だいたいこんな答えだったと思う。

そうか、そんな意味もこもってるだろうか。もっとわからなくなってしまった。今度並んでみようかな〜

並ぶ、並ばないどっちでもいい

社会人になってから分かったこと

僕は先週、「社会人」になった。

それはどういう意味か、実は最近までよく分からなかった。というのは、そもそも「社会人」と対応する英語の言葉はないわけ。「社会」という言葉はもともと西洋の「society」から生まれて、それから「社会人」という、英語と全く対応しない言葉が出てきた。

そういう背景からみて、西洋人の僕が「社会人」の意味を理解するためにはどうしたらいいのかな

分解してみたらどうか。「社会」プラス「人」イコール「社会人」

じゃなくて、「社会」に入った「人」「社会人」

まぁ、広い意味ではそういう感じじゃないですか。少なくとも「仕事」という意味とつながっている、それが最初から分かった。

でも「仕事」というと、また色々な別の言葉が出てくる。例えば最近よくニュースに出ている「正社員」「派遣」。それも、実は英語とあまり対応しないし、僕の育ったカナダの雇用形態とも違う。

まず仕事の種類の区別から見てみよう。カナダやアメリカでは、フルタイムの仕事をする人は「full-time worker」と呼んで、バイトをする人は「part-time worker」と呼ぶ。(「full-time employee」、「part-time employee」とも呼ばれる。)「full-time」と「part-time」の意味の違いは、ご覧の通り、時間の差を指す。それ以上、言外の意味はない。

一方で、「正社員」。英語に訳すと「regular worker」になるけど、正直言うと、日本に来るまでは「regular worker」という表現は一回も聞いたことはなかった。仕事の面から見ると、基本的に「フルタイムの仕事をする人」と似ているけれども、それより深い意味も持っているでしょう。もちろん日本人じゃないし、日本に住むのもそんなに長くないから、誤って解釈するかもしれないですが、個人的に「正社員」を聞くとすぐ「正」「正しい」という意味が頭に浮かぶ。つまり「正社員」は社会に対して「正しい」道に沿って進んでいるわけ、そういうふうに感じる。

逆に言うと、「正社員」じゃない人はどうか。正しくない道に陥っちゃったかな。それとも正しい方向に向かっていないか。どちも同じか。

いずれにしても、その「正社員じゃない人」の典型的な例はやはり「派遣」でしょう。それも、訳すと「temporary worker」になるけど、社会的な背景などから見ると、「派遣」と「temporary worker」の意味は決して同じなわけではない。「temporary workers village」という(変に聞こえる)「派遣村」の直訳から考えると分かると思うけど、(これはまたあくまでも僕の解釈にすぎないですが)「派遣」という概念はもともと「正しくない」「正しい道に沿って進んでいない」という裏の意味を持っていて、それを直接英語に翻訳すると「正しくない」という言外の意味がなくなるわけ。「temporary worker」の「temporary」という言葉は、「full-time worker」の「full-time」や、「part-time worker」の「part-time」などと同じように、時間の程度しか指してなくて、それ以外の意味は特にないからだ。

それでは、「社会人」。直訳すると、「society person」になる。もう少し考えると確かに「member of society」という英語の表現から生まれたかもしれない。でも正直言うとね、英語の言葉の中で「member of society」ほどズレている意味はないと思うよ。「member of society」は「社会に参加する人」という基本的な意味を指して、たとえ無職の人でも、何かボランティアとか他の社会と関わることをやっているんだったら、「member of society」とも呼べる。

一方で、日本の無職の人が「社会人」と呼ばれるなんて、想像もつかない。まさか、別の国のように感じるのではないですか。従って「member of society」とは違うわけ。

それでは、僕の場合はどうだろう。契約という形で、「正社員」になっていないんですが、それでも週に4回同じ職場に通っているし、朝から夕方まで仕事しているし、「社会人」という環境にいてて、「社会人になった」とも言われる。そういう基準では、社会人になったとも言えるでしょう。

じゃあ、とにかく「社会人になった」としよう。で、何が変わった。

まず、安心という気持ち。

ちょっと話がそれるけど、この「安心」という言葉について考えてみたいと思います。

数ヶ月前から、濱野智史氏(id:shamano)の「アーキテクチャの生態系」というインターネットについての本を読んでいる。そこで(インターネットとは直接関係なく)「米国は信頼社会、日本は安心社会?」という話があって、その中で濱野氏が社会心理学者の山岸俊男氏の「信頼社会・安心社会」の考えを参考にして、次のように書く(p.110-111):

山岸氏は、一般的に「日本は集団主義的、アメリカは個人主義的」という認識があるので、アメリカのほうがあまり他人を信用していないのではないか、と日本人は考えがちだが、実験を行なうと事実は逆であるということを明らかにしています。それはなぜかというと、アメリカのように、人的流動性の高い社会では、不確実な環境のなかでも、よりよい交流や協働のための相手を探すために、まずは見知らぬ他人の信頼度を高く設定しておいて、いざその相手が「信頼」にたる人物かどうかを、後から細かく判断・修正するほうが効率的だからです。こうした相手の信頼度を検知するスキルのことを、山岸氏は「社会的知性」と呼び、そのようなスキルが社会成員に渡って広く発達(進化)している社会のことを、「信頼社会」と呼んでいます。

一方、日本社会は関係の流動性が少なく、ずるずるべったりな相互依存的関係を築いたうえで、その「内輪」のメンバー間で強力したりすることが多くなります。なぜかというと、人間関係があまり流動しない状態では、自分が所属する集団に対する「内輪ひいき」をして、「内輪」を裏切らないでいることが、結果的には「合理的」になるからです。そこでは、その場の人間関係に常に注意を払い、はたして誰が「仲間」で誰が「余所者」(敵)なのかを見分ける、「関係検知的知性」が進化すると山岸氏はいいます。「空気を読む」といった現象も、そのうちに含められるでしょう。こうした社会では、「個人」のレベルで誰が信頼に足るべき人かを見分ける「社会的知性」はあまり必要とされず、むしろ「集団」のレベルで、誰と誰が仲間なのかといった仲間関係を見分ける知性のほうが重要になるというわけです。山岸氏は、こうした社会を「安心社会」と名づけています。

つまり山岸氏の議論は、「個人」の間で関係性を結ぶことを「信頼」と呼び、どの「集団」に属しているかを見て関係性を結ぶことを「安心」と呼ぶという対比構造を取っています。

上の引用には色々な面白いことが出てくると思うけど、とりあえずこの「内輪」についての話に注目したい。

それで、日本にいる、日本人ではない人にとっては、この「内輪」ってどういうこと。日本人じゃないと、「内輪」のメンバーは誰なのか。

実は、外国人として日本にいると、必ず日本の社会構造からある程度除外される。特に長く残るつもりはない場合はそうだと思うけど、でも長く残ってもいくつかの越えられない壁もあるわけ。最初から、(ほとんどの場合には)外国人だから日本にいる家族もない根もない戸籍もない。だから参加する「内輪」もない、内輪のメンバーは誰かも分からないわけ。

そして日本にいるとだんだん分かってきたけど、この「内輪」ということが、日本人の人間関係にはいかにも重要なことだ。でも上にも書いたように、日本人ではないと、「内輪」というのが決まっていないわけ。これはちょっと別の話になるかもしれないですが、日本人の外国人に対しての不安な気持ちも、確かにこのことにもつながっているのではないでしょうか。

でも先の社会人の話に戻って考えると、やはり「社会人」になると、濱野氏が書いたように、「相互依存的関係」が築かれて、誰が内輪のメンバーか、つまり誰が「仲間」、だれが「余所者」、もっとも重要な人間関係が一斉に決まる。

そして当然、安心する。

でも、もともと日本人じゃない人はどうなるか。安心するか。安心しないか。

まぁ、複雑ですね。でも少なくとも僕の場合には、安心した。どうしてかというと、もちろん給料を稼ぐことも大きいですが、それより大切なのは、やはり濱野氏が上の引用に書いた、「どの「集団」に属しているか」ということが決まったからだ。

そして、「正しい」道に進んでいる、というふうに感じ始めたわけ。


社会人になったサラリーマンたち(写真はFlickriMorpheusというユーザーが取りました。)



さて、「社会人になってから考えること」というこの記事のタイトルは何なのか。それはこの「正しい道」のあり方。

日本人にとってこの「正しい道」というのはどういうことだ。学校でいい成績を取って、いい大学に入って、いい会社に入社して、いい人と結婚して、などなど。そして幸せになる(らしい)。それももちろん日本のパターンだけではないですが、僕のカナダで育った経験から見ると、日本の場合は極めて堅く感じる。

堅いとも言えば、愚かとも言えるでしょう。まさか「この道に沿って進んだら幸せになる」という意味じゃないですか。

それで、この「正しい道」というのは、しらふさんが書いたガイダンス主義ともつながっていると思う:

どこ行っても指示が多い。紀伊国屋のエレベーターやら、銀行やら、プールやら。そこに行ってください、こうしてください、こうだめですという係人がどこにも、必ず、いる。

(略)

ガイダンス、ガイダンス、ガイダンス。

たまにありがたいことなのかもしれない。例えば、大事な書類を記入する時や、大きな金額を振込する時。

しかし、もっとシンプルなことをやるとき、人の想像力、知能、直観に任せたほうがいいんじゃないか。人の面倒を見すぎる社会的な制度は人を馬鹿にすると思う。よく平和ボケという翻訳しがたい表現が耳にするが、その表現は私の言いたいことにぴったり。

自分の代わりに考える「制度」があると、人間は体が成長するにつれて、頭はどんどん鈍感になっていく恐れがある。行き過ぎた社会保障は人間が生まれながらの武器、つまり自己保存本能、そして防衛本能など、を消す。

そういうことが危険だ。考えずに生きていくことになれた民族が滅びがちだ。「えらい人たちに」自分の運命を任せて、「どうでもいい」「仕方ない」という無責任の言葉を言いながら、死んでしまう。

しらふさんが書いた「制度」は、ある程度この「正しい道」に近いと思う。つまり、「制度」があるから日常的なレベルのこと(エレベーター、銀行、プールなど)について考えなくていい、というように、決まった「正しい道」があるから人生のレベルのこと(大学、仕事、結婚など)を、疑問視しないで、皆と同じ道を沿って進んでいい、というわけ。

で、その裏にあるのは、「安心」ということ。「正しい道」が「安心する道」。

でもそこが問題。さき書いたように、社会人になったら安心した。つまり、正しい道に沿って進んだら安心したわけ。けど率直に言って、日本に来るまでは、「安心する」ことを目指していたわけではなかった。「正しい道に沿って進む」ことを目指していたわけでもなかった。

じゃ、何を目指していたのか。どの「道」を目指していたのか。もちろんそれは「社会人になる」という道ではなかったわけ。

実は、はっきりした道はなかった。

そこで、今回注目したいのは、はっきりした道もなくて、「社会人になる」、「いい給料を稼ぐ」、「いい車を持つ」、「結婚する」などなど、そういう「決まった」目的もなかったのに、色々な面で頑張って、進んできた。行き先はどこにあるかははっきり分からないまま、進んでいたわけ。

そういう「道」で日本に来たわけですよ。子供の時から「日本に行きたいなー」という考えはなかった。日本に来る一年前の時にも、そういう考えは全くなかった。

で、これからはどうなるか、ということも、ある意味で分からないですよ。希望はもちろん持っているわけ。だけど、どこまで自分の行動で将来を決められるか、そこも疑いがあるんです。

一方で、「正しい道」の考え方では、つまり「こうやって絶対こうなる」という考え方では、そういう疑いはあまりない、少なくともそういうふうに見える。たとえ疑いがあっても、解決するには「ライフプラン」を作って進んでいい、というわけ。

でもライフプランだと、また「道」の考え方に戻る。自分が作ったか、社会で決まったか、どちも似ている。つまり、id:hase0831さんが書いたように、ライフプランがあると「あとは、自分で決めたことに沿って粛々と進めればOK!」という感じ、じゃないですか。

確かに日本の若者は最近、不景気の中、将来も見えない状態では、こういうこと、つまりこの「こうやって絶対こうなる」の欠点についてよく考えている気がする。それは非常にいいことだと思う。「こうやったら絶対こうなる」じゃなくて、むしろ自信を持って、自分のできること、社会に対して必要とされること、自分の道を、経験しながらも作って、成長しながらも進んだほうがいいのではないですか。

日本人はよく、アメリカなど、西洋の国の「自由な精神」、「自律的思想」などということを、「自分の好きなことばっかりやっていい」というふうに解釈するけど、それは根本的な誤解です。むしろ、「自分の将来について自分で考えて、自分で責任をとる」とう意味です。

それができるようになると多分、本当の「社会人」になる。

ガイダンス主義

2週間前、飛行機で神戸に行ってきた。
羽田から神戸空港まで一時間ちょい。一時間はすぐ経つだろうけど、飛行機でなんか読もうっかなと思って、雑誌を買った。その時、まだ飛行機が静かな場所だと思い込んでいた。甘い!


12時になって、ゲートのほうに向かった。
私のフライトが呼ばれてる。さ、行こう。シートを探して、着席しよう。そして、雑誌を鞄から出して、シートベルトを締めよう。
そうしたら、フライトアテンダントがいつもの指示をマイクで出し始める。「セキュリティベルトをお締めください」「荷物はきちんとしまってください」「puriiizu fasuten yooor sekyurity berto」など、など。
長談義が終わって、飛行機は雲の中へ飛び去る。窓の外をみたら、雲の海が浮いている。
ふううむ。。。気持ちいいなぁ〜 ッピコンって。
「この飛行機で禁煙となっております」。あ、はい。
寝ちゃおうかな〜 ッピコンって。
「本日、スカイマークがご利用になりまして、ありがとうございます」。はい、どういたしまして。
雑誌を読み始めよう〜 ッピコン
「これから、飲み物販売サービスが始まります」。
う〜ん ッピコン
「お茶、コーヒー、ジュース。。。もあります。」。いらない、むしろせっかく雑誌を買ったのに、それを読みたいけどッ
「お飲物いかがですかぁぁ」
。。。
10分ぐらいたつと、飛行機の中で、静かになる。あ〜、やっと記事の2行目読める。
。。。
よかった、記事を一本読めた。次のもおもしろそう。話題はちょっと難しそうだけど集中しよう〜 ッピコン
「まもなく、着陸が始まります」。
ッピコン「シートベルトをしっかりお締めください」。
ッピコン「これからエムピーツリープレーヤー、パソコンのご利用は禁止となっております」。
ッピコン「神戸に天気が晴れ、気温は10度です」。
。。。
ッピコン「本日スカイマークを選んでいただきまして誠にありがとうございました」。

飛行機を降りたら、耳がやっと休めた!



日本人ってよく口が堅い人々だと言われているが、その一時間は10時間のように感じて、よくしゃべるな〜と思って仕方なかった。
どこ行っても指示が多い。紀伊国屋のエレベターやら、銀行やら、プールやら。そこに行ってください、こうしてください、こうだめですという係人がどこにも、必ず、いる。
大学でもそうだ。コースが始まる前にガイダンスの時期が始まる。
金曜日は図書館でどうやって本を借りられるかのガイダンス。土曜日は前の日借りた本をどうやって返すガイダンス。
ガイダンス、ガイダンス、ガイダンス。

たまにありがたいことなのかもしれない。例えば、大事な書類を記入する時や、大きな金額を振込する時。
しかし、もっとシンプルなことをやるとき、人の想像力、知能、直観に任せたほうがいいんじゃないか。人の面倒を見すぎる社会的な制度は人を馬鹿にすると思う。よく平和ボケという翻訳しがたい表現が耳にするが、その表現は私の言いたいことにぴったり。
自分の代わりに考える「制度」があると、人間は体が成長するにつれて、頭はどんどん鈍感になっていく恐れがある。行き過ぎた社会保障は人間が生まれながらの武器、つまり自己保存本能、そして防衛本能など、を消す。
そういうことが危険だ。考えずに生きていくことになれた民族が滅びがちだ。「えらい人たちに」自分の運命を任せて、「どうでもいい」「仕方ない」という無責任の言葉を言いながら、死んでしまう。
ところが、死に方を案内するガイダンスがまだ誰も書いていないから、マヨッチャウかもね。

「かわいい女性」とトランスジェンダー

 よんです。今回書く内容は前回に書いた「〈かわいい〉と言い合う社会」の続きのようなものです。みなさんからコメントをいただいたように、「かわいい」という言葉は人により使い道も使う意図も変りますね。しおさんが書いた「やさしい見掛けによらずもっと難しい英語の〈get〉」では言葉の難しさが指摘されましたが、言葉に関するもともとの意味や社会で変遷されていく言葉の意味など、使われている様々な言葉の意味やコンテキスト(context)を追跡していくことはすごく難しいという気がします。前回はいろいろなご意見ありがとうございました

 最近、テレビで椿姫彩菜(つばきあやな)というタレントをよく目にする。微笑む目元から溢れる愛嬌、頭の先から足裏まで磨いているような身なりの可愛いタレント。彼女の日常を取材した番組では、休日の彼女が何をしながら過ごしているのかが記録されていた。朝から美容院やネイルサロンに行き、買い物をするなど、彼女の行動は「女磨き」として紹介された。彼女が男性という生まれつきの性を捨て、「女性」になる手術を受けたことは、多少の驚きを感じさせる事実だった。女性として生まれたとしても何一つの違和感を覚えさせない顔、声、体型など。番組を見ながら彼女が追及している、もしくは追及されている「女磨き」にかかわる彼女の行動が、本当の「女磨き」だと、いつの間にか頭のなかで認めはじめていたのではないかと思い、不思議な気持ちになった(テレビの威力?)。

 最近でもないかもしれないが、テレビで活躍するタレントのなかには、生れつきの性を否定し、新たな性を求める人々の出演が増えつつある。異なる性に憧れ、性別適合手術を受け、生まれつきの性を変えたり、異性愛を否定し、同性愛や両性愛などを選択する人々。世の中は性やセクスの好みによる人種の区分があるかのように、性や性趣向により誕生した言葉や話題が溢れ出る。
 そのなかで話題になる人々を見る目は、どこに向けられているだろうか。彼女や彼らの身なり、あるいは行動?なにより、彼女や彼らがトランスジェンダーの役にうまくあてはまっているかどうかを気にしているのではないだろうか。トランスジェンダーにふさわしいイメージを生産するものは果たして誰なのだろう。
 先に椿姫彩菜を取り上げたが、彼女と同じく性同一性障害を抱え性別適合手術を受けたはるな愛(はるなあい)は、椿姫とは多少違う。女性にふさわしいといえる外見の元主でありながら、自分のなかから消されていなかったような男性的な部分を巧く表に出し、芸を披露する。松浦亜弥(まつうらあや)というアイドルの物まねで有名になったはるな愛が笑いをとる芸は、彼女が作り上げた中性的な女性のイメージがうまくコントロールされているように見える。(みなさん、もし知らない方がいるなら、はるな愛の「エアあやや」をぜひ見てください!)

 しかし、椿姫彩菜はるな愛だけではない、IKKOも流行語を流行らせた有名なメイクアーチスト兼タレント、その他にも「おネエMANS」という番組を見ると、生まれつきの性は男性でも女性らしいといえる人々はたくさん登場する。ちなみにこの番組の番組概要には次のような内容が書かれてある。

「おネエMANS」とは男なのに男じゃない、女性よりも女性らしい・・・中略・・・おネエMANSが・・・・・・世の女性をキレイにし、見る人すべてをしわわせにしてくれる・・・・・・

 人々が彼女や彼らをどのような存在として見ているかについてはここでは言及しないことにする。それより、彼女や彼らが本来の女性より女性の美を優先する存在として、メディアから売られていることに焦点を当てたい。

 テレビに顔を出す彼女や彼らは商品化されやすい。性別適合手術や整形手術にいくらくらいの費用がかかったのか、それは本人に合うように行われたのか、手術前後の変化の度合いは?などの話題は人々の興味をそそる。
 また、「おネエMANS」という番組でもそうだが、彼女や彼らに美容師や振付家などのファッションや芸術分野の人が知られていることもあり、美的な価値を重要視する人としてよく取り上げられる。メディアに出演する彼女や彼らは収入も高く、女性たちが憧れる(という誤解を招く)ブランド品を身にまとうこともできる。彼女や彼らが身にまとう商品は人気を呼び、経済的効果にもつながる。
 彼女や彼らが生きてきた人生は別として、テレビで注目される彼女や彼らはある意味で、元々女性として生まれた女たちが(ファッションや女磨きの面で)真似たいと思い、憧れる。彼女や彼らの行為や振る舞いは自分たちの生まれつきの性を否定し、女性という性を目立たせる行為であるとみることもできる。しかしながら、彼女や彼らが目指す女性はどういう女性であるだろうか。それはどのようなプロセスで生産されたイメージであり、それを見る視聴者はそのイメージをどのように受け入れているだろうか。社会から追求される女性のイメージ、そして女性が持つ本来のイメージ、女性というジェンダーとは関係を持たない女性のイメージ……この世で作られているイメージだけで、数えきれないほどのイメージが存在するだろう。
かわいい」彼女や彼ら、そしてそのイメージを助長する社会。社会の多様化とともない、表で力を発揮できるようになった彼女や彼ら。しかし、どこかで偏っている彼女ら、彼ら、それを見る視聴者の視線。彼女や彼らが求めている女性、それは偏っている社会の思想ともつながっているかもしれない。
 
 昨日の夜、再びテレビで椿姫彩菜の日常を追った番組が放映された。そこで撮られた彼女は女性の細かい目線で買い物をこなし、下手である料理をうまく作れるために奮闘していた。料理の場面で、彼女は「花嫁修業ではないが……」と言葉を濁らしたが、花嫁に憧れているのではないかという感情が彼女の照れた語調から込み上げてくるようだった。ちょっとした反抗心から起こった疑問、花嫁になるためには料理がうまくなければいけないだろうか。

やさしい見掛けによらずもっとも難しい英語の「get」

お世話になっております。しおです。この数週間で「日々の色々・The colour of the sun」という私たち3人のブログは、記事も読者も増えて、少しずつ進んできた。このブログを読んだり、ブックマークしたり、コメント欄にコメントを書いたりする皆さん、誠にありがとうございます。これからもブログを続けていきたいと思います。

それでは、先週の『違う目から見た「日本語」』という僕の最初のエントリーに続いて、同じ「言語の違い」という広いテーマで、今回は母国語の英語を中心にしたいと思います。そこで、最初のエントリーで取り上げた「社会(society)」や「自由(freedom)」、「権利(rights)」など、見かけで分かるような難しさのある言葉のに対して、今回はタイトルにも書いたように「やさしい見掛けによらず難しい」言葉に注目したいと思います。

じゃあ、まずそれはどういう言葉だ。「やさしい英語」と言えば、日本人はよく「This is a pen.」みたいな学校で習った(本当は全く役に立たない)「典型的な英語」が頭に浮かぶかもしれない。まぁ、僕自身日本人じゃないけど、少なくともそれをよく聞いた。でも少し考えると、「This is a pen.」という文がやさしいということは、「これはペンです」という全く同じ形、同じ意味の日本語の文があるからだ。要するに、英語の文でも、もともと日本語から作られたわけ。だから日本語のある文とピッタリ対応する。だから簡単だ。

今回の「やさしい見掛け」はそういうことではない。このエントリーで注目したいのは、「This is a pen.」のような日本の教育制度から生まれた役に立たない「不自然な英語 」のではなく、むしろ「母国語の英語の人に取って当たり前なのに、日本人に取ってはいかにも難しい」というような言葉だ。「This is a pen./これはペンです。」みたいな関連、つまり文法の面でも、語彙の面でもピッタリ対応するペアの表現とは違って、今回紹介する「やさしい見掛けによらず難しい」言葉は逆に、日本語とは根本的に対応シマセン。

...あれあれ、ちょっと待って。日本語と対応しない言葉は、どうやって説明したらいいんだろう。僕の頭の中では言葉の意味や、その言葉の使い方などが分かっているけど、対応する日本語の表現はないから直接に表現できないわけ。前の記事でちょっと触れた「社会(society)」などという海外から来た概念も元々(150年くらい前に)同じような問題はもちろんあった。でも、(繰り返しますが)今日のエントリーではそういう「難しくて深い意味の言葉」をとりあえず置いておいて、「見掛けがやさしい」、「英語圏の人には意味が当たり前」、それから「いるいるな場面で使われる」という特徴のある言葉に注目したいと思います。

では、その特徴のある典型的な例の一つとして、3文字しかないやさしそうな「get」という言葉を挙げます。見掛けによらずもっとも難しい英語の言葉だと、僕はここで主張する。信じがたい人も少なくはないと思うけれども、「get」は使い方も多くて、意味も様々で、非常に難しくて、非常に複雑な言葉だ。一方でネイティブの人に聞いたら、考えずに「getより簡単な言葉はないよ」という答えも来るかもしれない。

それで、「get」の意味を視覚化するために、まず日本語の「ゲット」という(「get」と対応するような)外来語から考えてみましょう。「ゲット」を国語辞書で調べると、「得ること」、「手に入れること」という意味が出てくる。また、「ゲット」をはてなダイアリーで探してみると、「得ること」として使っている記事もいっぱい出てくる。その例の一つとして、id:mugen8764さんが「ニコニコ動画のマグカップをゲット」というタイトルのエントリーを、先月にアップした。エントリーを読むと分かるけど(まぁタイトルだけで分かるよね)、この場合に「ゲット」の意味は(ゲームセンターでチャレンジして)「マグカップを得た」ということを示している。

他のブロガーも「ゲット」を同じように使う。id:HoshibaさんはWILLCOM D4をゲットしたそうだ。id:INNさんはPS3をゲットid:nagakura_eilさんはiPodTouchをゲットid:phoさんがタミフルをゲットするまで、いろいろなものを「ゲットする」ことができるわけ。

でも考えてみると、上のような「得ること」や「手に入れること」という解釈以外に、日本語で「ゲット」という言葉の意味はほとんどない。しかも「得ること」より、ゲットの使い方のほうが限られている。上のブロガーみたいに、「何とかをゲット」というパターンはよく出て来るけど、それ以外に(ダンディ坂野の「ゲッツだぜ」を除いて)別の使い方はあまりないよね。

でもまあ、「ゲット」の意味は限られているとしても、少なくとも英語の「get」の主な意味と大体対応するのではないかと、普通の日本人は思うかもしれない。でもそこも、根本的な誤解がある。

確かに辞書に引くと、例えばMerriam-Websterには一番最初に出るのが「to gain possession of」、つまり「得ること」という意味。同じように、Cambridge Advanced Learner's Dictionaryに「get」を引くと、一番最初に「to obtain, buy or earn something」という説明も出てくる。したがって、id:Hoshibaさんの「WILLCOM D4をゲットしました」というタイトルを翻訳すると、「I got a WILLCOM D4」という英語になる。もちろんそれは間違いではない。でも探してみたら分かると思うけど、「I got a ...」というようなタイトルを使っている英語圏のブロガーは、「何とかゲット」をタイトルとして使っている日本人のブロガーの数と比べて、決して多くない。

さらに「get」と「ゲット」の違いは数の話だけではない。「得ること」という意味だけに限っても、日本語のゲットと英語のgetの間に、使い方のズレもある。一つの例として、id:mariさんが「韓国旅行をゲット!」というタイトルの記事を書いたけど、それはあくまでも「日本語」的な「ゲット」の使い方。英語で「I got a trip to South Korea」とはあまり言わないわけ。(その代わりに、例えば「I got a ticket to South Korea」とかは言えるけどね。この使い方では、チケットのような具体的なものがこの場合に必要だから。けど、別の使い方では「I got the message.」のような言い方もある。)

日本語のカタカナの外来語の中で、こういうパターンがかなり多い。つまり、「get」のような英語の言葉があって、日本人が同じ音の「ゲット」のようなカタカナ言葉を作って、同じような意味(得ること)を付けて、そして英語を使う時に言葉の本当の意味を分からずに、日本語のズレている意味として使おうとする。「テンション」の意味と「tension」の意味、その間にある違いというのも典型的な例の一つだけど、その他にも数えられないほど同じような言葉がたくさんある。

実はこのようなことは、文化を取り入れる面でも似ている傾向がある。よんちゃんが『「かわいい」と言い合う社会』というエントリーの中で、こう書いた:

日本に浸透している外来文化は、いつのまにか日本文化に生まれ変った。たぶんいろいろな分野でそれは行われた。 伝統文化だけが日本文化ではなく、日本における外来文化も日本文化の一種であり、非常に大事だと思う。

 それゆえ、そのなかでは日本文化の特徴的な要素が必ず入っています。日本で上演されたカチューシャが明治時代の女性を反映しているように、日本で受け入れられた外来文化には外国の要素を除けば、日本特有の個性なるものが残るということです。

外来語のカタカナ言葉の面でも、「ゲット」や「テンション」みたいに、外国語が日本語の言葉として採用されると、結局は別の意味が外国語の言葉から生まれる。そしてその海外から生まれた日本語の言葉の新しい意味(たとえば「テンション=盛り上がる」)は、外来語の元々の意味(「tension=緊張する」)の代わりに使われるようになる。

さて、今までは「ゲット」という日本語の外来語を取り上げてきたのですが、一方で「get」という英語の言葉は、「ゲット」以外にどういう意味を持つのでしょうか。実は辞書で引いて見たら、「get」の意味は山のようにたくさんある。でも、「ゲット」との違いを強調するために、一つの例は十分だと思う。

その例としては「やってもらう」を挙げます。

まず、「やってもらう」という表現を聞くと、「ゲット」という意味が頭に浮かぶ日本人はほとんどいないだろう。というか、言葉として、日本語の場合は関係が全くないよね。

でも英語の場合はやはり違う。例えば、「I'll get him to do it.」(または「I'll get her to do it.」、「I'll get them to do it.」など)という日常会話の表現のパターン。この文を日本語にすると、「彼にやってもらう。」(または「彼女にやってもらう。」、「彼たちにやってもらう」など)という文になる。もう一つの例として(これを辞書から引いた)「He got his wife to mend his shirt.」という文は、「彼は妻にシャッツを繕ってもらった」になる。

じゃあ、英語の「get」を、「やってもらう」という意味が分かれば大丈夫なのではないか、と思ったら残念だけど、そうではない。もう少し探してみたら、「やってもらう」という広い意味に限っても、ズレがある。また辞書から引いて、「I couldn't get him to stop smoking.」を訳すと、「彼にタバコをやめさせられなかった。」という日本語になる。この場合に、「やってもらう」という形はあまりにも合わない(「彼にタバコをやめてもらえなかった」とは言えないでしょ)。もう一つの「やってもらう」とズレている使い方の例として、「I got the machine running.」という英語の文があって、それを訳すと「機会を初動させた。」という日本語になる。

この「やってもらう・させる」という一般の形は、「get」の意味の一つとしてかなり大切、かなり便利なパターンです。しかも英語圏の人には、よく使われる。それでもほとんどの日本人には、「やってもらう」という「get」のこの意味は、全く知らないでしょう。「機会をゲットさせた。」という文は訳が分からないけど、「get」を「ゲット」そのままにしたら、こういう結果が出るわけ。

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しかも「get」に止まらず、他にも同じような言葉がいっぱいある。田中茂範氏という慶應義塾大学の教授が、「take」、「give」、「have」、「make」など(「get」ももちろん入っている)、やさしい見掛けによらず難しい英語の言葉を並んで、「基本動詞」という名前を付けて、英単語ネットワークイメージなどの仕組みで説明する。そこで、例えば「話せる英単語ネットワーク動詞編」という本の中で、田中氏がこう書いた:

実は、一見意味の難しい単語よりも、takeやgiveのような意味の広がりの大きい語ほど、扱いにくく、その意味を正確に把握するのが難しいものです。「基本動詞」と呼ばれる重要的な語ほど、その傾向が強いのです。

今回の「get」という言葉、それから上のような基本動詞も、共通特徴としては皆がやさしそうに見えるけど、実は決してそうではない。この例から考えると、日本人が「英語が難しい!」という気持ちがよく分かる。つまり、「get」という3文字しかない「簡単」な言葉は、簡単ではなく、むしろ日本語と対応しないかなり難しい「英語の軸の一つ」のである。