「かわいい女性」とトランスジェンダー

 よんです。今回書く内容は前回に書いた「〈かわいい〉と言い合う社会」の続きのようなものです。みなさんからコメントをいただいたように、「かわいい」という言葉は人により使い道も使う意図も変りますね。しおさんが書いた「やさしい見掛けによらずもっと難しい英語の〈get〉」では言葉の難しさが指摘されましたが、言葉に関するもともとの意味や社会で変遷されていく言葉の意味など、使われている様々な言葉の意味やコンテキスト(context)を追跡していくことはすごく難しいという気がします。前回はいろいろなご意見ありがとうございました

 最近、テレビで椿姫彩菜(つばきあやな)というタレントをよく目にする。微笑む目元から溢れる愛嬌、頭の先から足裏まで磨いているような身なりの可愛いタレント。彼女の日常を取材した番組では、休日の彼女が何をしながら過ごしているのかが記録されていた。朝から美容院やネイルサロンに行き、買い物をするなど、彼女の行動は「女磨き」として紹介された。彼女が男性という生まれつきの性を捨て、「女性」になる手術を受けたことは、多少の驚きを感じさせる事実だった。女性として生まれたとしても何一つの違和感を覚えさせない顔、声、体型など。番組を見ながら彼女が追及している、もしくは追及されている「女磨き」にかかわる彼女の行動が、本当の「女磨き」だと、いつの間にか頭のなかで認めはじめていたのではないかと思い、不思議な気持ちになった(テレビの威力?)。

 最近でもないかもしれないが、テレビで活躍するタレントのなかには、生れつきの性を否定し、新たな性を求める人々の出演が増えつつある。異なる性に憧れ、性別適合手術を受け、生まれつきの性を変えたり、異性愛を否定し、同性愛や両性愛などを選択する人々。世の中は性やセクスの好みによる人種の区分があるかのように、性や性趣向により誕生した言葉や話題が溢れ出る。
 そのなかで話題になる人々を見る目は、どこに向けられているだろうか。彼女や彼らの身なり、あるいは行動?なにより、彼女や彼らがトランスジェンダーの役にうまくあてはまっているかどうかを気にしているのではないだろうか。トランスジェンダーにふさわしいイメージを生産するものは果たして誰なのだろう。
 先に椿姫彩菜を取り上げたが、彼女と同じく性同一性障害を抱え性別適合手術を受けたはるな愛(はるなあい)は、椿姫とは多少違う。女性にふさわしいといえる外見の元主でありながら、自分のなかから消されていなかったような男性的な部分を巧く表に出し、芸を披露する。松浦亜弥(まつうらあや)というアイドルの物まねで有名になったはるな愛が笑いをとる芸は、彼女が作り上げた中性的な女性のイメージがうまくコントロールされているように見える。(みなさん、もし知らない方がいるなら、はるな愛の「エアあやや」をぜひ見てください!)

 しかし、椿姫彩菜はるな愛だけではない、IKKOも流行語を流行らせた有名なメイクアーチスト兼タレント、その他にも「おネエMANS」という番組を見ると、生まれつきの性は男性でも女性らしいといえる人々はたくさん登場する。ちなみにこの番組の番組概要には次のような内容が書かれてある。

「おネエMANS」とは男なのに男じゃない、女性よりも女性らしい・・・中略・・・おネエMANSが・・・・・・世の女性をキレイにし、見る人すべてをしわわせにしてくれる・・・・・・

 人々が彼女や彼らをどのような存在として見ているかについてはここでは言及しないことにする。それより、彼女や彼らが本来の女性より女性の美を優先する存在として、メディアから売られていることに焦点を当てたい。

 テレビに顔を出す彼女や彼らは商品化されやすい。性別適合手術や整形手術にいくらくらいの費用がかかったのか、それは本人に合うように行われたのか、手術前後の変化の度合いは?などの話題は人々の興味をそそる。
 また、「おネエMANS」という番組でもそうだが、彼女や彼らに美容師や振付家などのファッションや芸術分野の人が知られていることもあり、美的な価値を重要視する人としてよく取り上げられる。メディアに出演する彼女や彼らは収入も高く、女性たちが憧れる(という誤解を招く)ブランド品を身にまとうこともできる。彼女や彼らが身にまとう商品は人気を呼び、経済的効果にもつながる。
 彼女や彼らが生きてきた人生は別として、テレビで注目される彼女や彼らはある意味で、元々女性として生まれた女たちが(ファッションや女磨きの面で)真似たいと思い、憧れる。彼女や彼らの行為や振る舞いは自分たちの生まれつきの性を否定し、女性という性を目立たせる行為であるとみることもできる。しかしながら、彼女や彼らが目指す女性はどういう女性であるだろうか。それはどのようなプロセスで生産されたイメージであり、それを見る視聴者はそのイメージをどのように受け入れているだろうか。社会から追求される女性のイメージ、そして女性が持つ本来のイメージ、女性というジェンダーとは関係を持たない女性のイメージ……この世で作られているイメージだけで、数えきれないほどのイメージが存在するだろう。
かわいい」彼女や彼ら、そしてそのイメージを助長する社会。社会の多様化とともない、表で力を発揮できるようになった彼女や彼ら。しかし、どこかで偏っている彼女ら、彼ら、それを見る視聴者の視線。彼女や彼らが求めている女性、それは偏っている社会の思想ともつながっているかもしれない。
 
 昨日の夜、再びテレビで椿姫彩菜の日常を追った番組が放映された。そこで撮られた彼女は女性の細かい目線で買い物をこなし、下手である料理をうまく作れるために奮闘していた。料理の場面で、彼女は「花嫁修業ではないが……」と言葉を濁らしたが、花嫁に憧れているのではないかという感情が彼女の照れた語調から込み上げてくるようだった。ちょっとした反抗心から起こった疑問、花嫁になるためには料理がうまくなければいけないだろうか。