社会人になってから分かったこと

僕は先週、「社会人」になった。

それはどういう意味か、実は最近までよく分からなかった。というのは、そもそも「社会人」と対応する英語の言葉はないわけ。「社会」という言葉はもともと西洋の「society」から生まれて、それから「社会人」という、英語と全く対応しない言葉が出てきた。

そういう背景からみて、西洋人の僕が「社会人」の意味を理解するためにはどうしたらいいのかな

分解してみたらどうか。「社会」プラス「人」イコール「社会人」

じゃなくて、「社会」に入った「人」「社会人」

まぁ、広い意味ではそういう感じじゃないですか。少なくとも「仕事」という意味とつながっている、それが最初から分かった。

でも「仕事」というと、また色々な別の言葉が出てくる。例えば最近よくニュースに出ている「正社員」「派遣」。それも、実は英語とあまり対応しないし、僕の育ったカナダの雇用形態とも違う。

まず仕事の種類の区別から見てみよう。カナダやアメリカでは、フルタイムの仕事をする人は「full-time worker」と呼んで、バイトをする人は「part-time worker」と呼ぶ。(「full-time employee」、「part-time employee」とも呼ばれる。)「full-time」と「part-time」の意味の違いは、ご覧の通り、時間の差を指す。それ以上、言外の意味はない。

一方で、「正社員」。英語に訳すと「regular worker」になるけど、正直言うと、日本に来るまでは「regular worker」という表現は一回も聞いたことはなかった。仕事の面から見ると、基本的に「フルタイムの仕事をする人」と似ているけれども、それより深い意味も持っているでしょう。もちろん日本人じゃないし、日本に住むのもそんなに長くないから、誤って解釈するかもしれないですが、個人的に「正社員」を聞くとすぐ「正」「正しい」という意味が頭に浮かぶ。つまり「正社員」は社会に対して「正しい」道に沿って進んでいるわけ、そういうふうに感じる。

逆に言うと、「正社員」じゃない人はどうか。正しくない道に陥っちゃったかな。それとも正しい方向に向かっていないか。どちも同じか。

いずれにしても、その「正社員じゃない人」の典型的な例はやはり「派遣」でしょう。それも、訳すと「temporary worker」になるけど、社会的な背景などから見ると、「派遣」と「temporary worker」の意味は決して同じなわけではない。「temporary workers village」という(変に聞こえる)「派遣村」の直訳から考えると分かると思うけど、(これはまたあくまでも僕の解釈にすぎないですが)「派遣」という概念はもともと「正しくない」「正しい道に沿って進んでいない」という裏の意味を持っていて、それを直接英語に翻訳すると「正しくない」という言外の意味がなくなるわけ。「temporary worker」の「temporary」という言葉は、「full-time worker」の「full-time」や、「part-time worker」の「part-time」などと同じように、時間の程度しか指してなくて、それ以外の意味は特にないからだ。

それでは、「社会人」。直訳すると、「society person」になる。もう少し考えると確かに「member of society」という英語の表現から生まれたかもしれない。でも正直言うとね、英語の言葉の中で「member of society」ほどズレている意味はないと思うよ。「member of society」は「社会に参加する人」という基本的な意味を指して、たとえ無職の人でも、何かボランティアとか他の社会と関わることをやっているんだったら、「member of society」とも呼べる。

一方で、日本の無職の人が「社会人」と呼ばれるなんて、想像もつかない。まさか、別の国のように感じるのではないですか。従って「member of society」とは違うわけ。

それでは、僕の場合はどうだろう。契約という形で、「正社員」になっていないんですが、それでも週に4回同じ職場に通っているし、朝から夕方まで仕事しているし、「社会人」という環境にいてて、「社会人になった」とも言われる。そういう基準では、社会人になったとも言えるでしょう。

じゃあ、とにかく「社会人になった」としよう。で、何が変わった。

まず、安心という気持ち。

ちょっと話がそれるけど、この「安心」という言葉について考えてみたいと思います。

数ヶ月前から、濱野智史氏(id:shamano)の「アーキテクチャの生態系」というインターネットについての本を読んでいる。そこで(インターネットとは直接関係なく)「米国は信頼社会、日本は安心社会?」という話があって、その中で濱野氏が社会心理学者の山岸俊男氏の「信頼社会・安心社会」の考えを参考にして、次のように書く(p.110-111):

山岸氏は、一般的に「日本は集団主義的、アメリカは個人主義的」という認識があるので、アメリカのほうがあまり他人を信用していないのではないか、と日本人は考えがちだが、実験を行なうと事実は逆であるということを明らかにしています。それはなぜかというと、アメリカのように、人的流動性の高い社会では、不確実な環境のなかでも、よりよい交流や協働のための相手を探すために、まずは見知らぬ他人の信頼度を高く設定しておいて、いざその相手が「信頼」にたる人物かどうかを、後から細かく判断・修正するほうが効率的だからです。こうした相手の信頼度を検知するスキルのことを、山岸氏は「社会的知性」と呼び、そのようなスキルが社会成員に渡って広く発達(進化)している社会のことを、「信頼社会」と呼んでいます。

一方、日本社会は関係の流動性が少なく、ずるずるべったりな相互依存的関係を築いたうえで、その「内輪」のメンバー間で強力したりすることが多くなります。なぜかというと、人間関係があまり流動しない状態では、自分が所属する集団に対する「内輪ひいき」をして、「内輪」を裏切らないでいることが、結果的には「合理的」になるからです。そこでは、その場の人間関係に常に注意を払い、はたして誰が「仲間」で誰が「余所者」(敵)なのかを見分ける、「関係検知的知性」が進化すると山岸氏はいいます。「空気を読む」といった現象も、そのうちに含められるでしょう。こうした社会では、「個人」のレベルで誰が信頼に足るべき人かを見分ける「社会的知性」はあまり必要とされず、むしろ「集団」のレベルで、誰と誰が仲間なのかといった仲間関係を見分ける知性のほうが重要になるというわけです。山岸氏は、こうした社会を「安心社会」と名づけています。

つまり山岸氏の議論は、「個人」の間で関係性を結ぶことを「信頼」と呼び、どの「集団」に属しているかを見て関係性を結ぶことを「安心」と呼ぶという対比構造を取っています。

上の引用には色々な面白いことが出てくると思うけど、とりあえずこの「内輪」についての話に注目したい。

それで、日本にいる、日本人ではない人にとっては、この「内輪」ってどういうこと。日本人じゃないと、「内輪」のメンバーは誰なのか。

実は、外国人として日本にいると、必ず日本の社会構造からある程度除外される。特に長く残るつもりはない場合はそうだと思うけど、でも長く残ってもいくつかの越えられない壁もあるわけ。最初から、(ほとんどの場合には)外国人だから日本にいる家族もない根もない戸籍もない。だから参加する「内輪」もない、内輪のメンバーは誰かも分からないわけ。

そして日本にいるとだんだん分かってきたけど、この「内輪」ということが、日本人の人間関係にはいかにも重要なことだ。でも上にも書いたように、日本人ではないと、「内輪」というのが決まっていないわけ。これはちょっと別の話になるかもしれないですが、日本人の外国人に対しての不安な気持ちも、確かにこのことにもつながっているのではないでしょうか。

でも先の社会人の話に戻って考えると、やはり「社会人」になると、濱野氏が書いたように、「相互依存的関係」が築かれて、誰が内輪のメンバーか、つまり誰が「仲間」、だれが「余所者」、もっとも重要な人間関係が一斉に決まる。

そして当然、安心する。

でも、もともと日本人じゃない人はどうなるか。安心するか。安心しないか。

まぁ、複雑ですね。でも少なくとも僕の場合には、安心した。どうしてかというと、もちろん給料を稼ぐことも大きいですが、それより大切なのは、やはり濱野氏が上の引用に書いた、「どの「集団」に属しているか」ということが決まったからだ。

そして、「正しい」道に進んでいる、というふうに感じ始めたわけ。


社会人になったサラリーマンたち(写真はFlickriMorpheusというユーザーが取りました。)



さて、「社会人になってから考えること」というこの記事のタイトルは何なのか。それはこの「正しい道」のあり方。

日本人にとってこの「正しい道」というのはどういうことだ。学校でいい成績を取って、いい大学に入って、いい会社に入社して、いい人と結婚して、などなど。そして幸せになる(らしい)。それももちろん日本のパターンだけではないですが、僕のカナダで育った経験から見ると、日本の場合は極めて堅く感じる。

堅いとも言えば、愚かとも言えるでしょう。まさか「この道に沿って進んだら幸せになる」という意味じゃないですか。

それで、この「正しい道」というのは、しらふさんが書いたガイダンス主義ともつながっていると思う:

どこ行っても指示が多い。紀伊国屋のエレベーターやら、銀行やら、プールやら。そこに行ってください、こうしてください、こうだめですという係人がどこにも、必ず、いる。

(略)

ガイダンス、ガイダンス、ガイダンス。

たまにありがたいことなのかもしれない。例えば、大事な書類を記入する時や、大きな金額を振込する時。

しかし、もっとシンプルなことをやるとき、人の想像力、知能、直観に任せたほうがいいんじゃないか。人の面倒を見すぎる社会的な制度は人を馬鹿にすると思う。よく平和ボケという翻訳しがたい表現が耳にするが、その表現は私の言いたいことにぴったり。

自分の代わりに考える「制度」があると、人間は体が成長するにつれて、頭はどんどん鈍感になっていく恐れがある。行き過ぎた社会保障は人間が生まれながらの武器、つまり自己保存本能、そして防衛本能など、を消す。

そういうことが危険だ。考えずに生きていくことになれた民族が滅びがちだ。「えらい人たちに」自分の運命を任せて、「どうでもいい」「仕方ない」という無責任の言葉を言いながら、死んでしまう。

しらふさんが書いた「制度」は、ある程度この「正しい道」に近いと思う。つまり、「制度」があるから日常的なレベルのこと(エレベーター、銀行、プールなど)について考えなくていい、というように、決まった「正しい道」があるから人生のレベルのこと(大学、仕事、結婚など)を、疑問視しないで、皆と同じ道を沿って進んでいい、というわけ。

で、その裏にあるのは、「安心」ということ。「正しい道」が「安心する道」。

でもそこが問題。さき書いたように、社会人になったら安心した。つまり、正しい道に沿って進んだら安心したわけ。けど率直に言って、日本に来るまでは、「安心する」ことを目指していたわけではなかった。「正しい道に沿って進む」ことを目指していたわけでもなかった。

じゃ、何を目指していたのか。どの「道」を目指していたのか。もちろんそれは「社会人になる」という道ではなかったわけ。

実は、はっきりした道はなかった。

そこで、今回注目したいのは、はっきりした道もなくて、「社会人になる」、「いい給料を稼ぐ」、「いい車を持つ」、「結婚する」などなど、そういう「決まった」目的もなかったのに、色々な面で頑張って、進んできた。行き先はどこにあるかははっきり分からないまま、進んでいたわけ。

そういう「道」で日本に来たわけですよ。子供の時から「日本に行きたいなー」という考えはなかった。日本に来る一年前の時にも、そういう考えは全くなかった。

で、これからはどうなるか、ということも、ある意味で分からないですよ。希望はもちろん持っているわけ。だけど、どこまで自分の行動で将来を決められるか、そこも疑いがあるんです。

一方で、「正しい道」の考え方では、つまり「こうやって絶対こうなる」という考え方では、そういう疑いはあまりない、少なくともそういうふうに見える。たとえ疑いがあっても、解決するには「ライフプラン」を作って進んでいい、というわけ。

でもライフプランだと、また「道」の考え方に戻る。自分が作ったか、社会で決まったか、どちも似ている。つまり、id:hase0831さんが書いたように、ライフプランがあると「あとは、自分で決めたことに沿って粛々と進めればOK!」という感じ、じゃないですか。

確かに日本の若者は最近、不景気の中、将来も見えない状態では、こういうこと、つまりこの「こうやって絶対こうなる」の欠点についてよく考えている気がする。それは非常にいいことだと思う。「こうやったら絶対こうなる」じゃなくて、むしろ自信を持って、自分のできること、社会に対して必要とされること、自分の道を、経験しながらも作って、成長しながらも進んだほうがいいのではないですか。

日本人はよく、アメリカなど、西洋の国の「自由な精神」、「自律的思想」などということを、「自分の好きなことばっかりやっていい」というふうに解釈するけど、それは根本的な誤解です。むしろ、「自分の将来について自分で考えて、自分で責任をとる」とう意味です。

それができるようになると多分、本当の「社会人」になる。