お姫様と好青年の物語

 byよん

 静岡県舞台芸術センター(SPAC)に行ってきた。そこの特徴は山の上に劇場や稽古場をもうけた施設ということだが、その広い空間には茶畑も広がっている。秋の空とその茶畑を見つめながら空気を吸うだけで気持ちがいい。

 

 そこで開かれた学会の研究発表のひとつのなか、『旅とあいつとお姫様』(演出:Teresa Ludovico)という演劇が取り上げられた。座・高円寺という劇場で私が何か月前に観劇した作品だった。

 演劇について論じる気はない。ただ、私はその演劇を観た後、ずっと怒ったような気持ちになっていた。私の気持ちとは関係なく、研究発表でその演劇に関する評価は非常に高かった。
それが何だか気に入らなかった、たぶん。

 この演劇のあらすじを簡単に紹介すると、魔法に掛けられ悪魔と交際中のお姫さまは求婚しに来る青年たちをみな殺し、その首を庭園にぶら下げる悪趣味を持っている。お姫さまを道で見かけた一人の純粋な青年はお姫さまに一目ぼれし、求婚するためにお城を訪ねるが、お姫様が出す謎を解けないと結婚はできない、そして殺されてしまう。悪魔と組んで絶対解けない謎を出すお姫さまだが、心優しい青年の隣には彼を助けてくれる友人がついていた。紆余曲折のすえ、謎を解けた青年はお姫様と結婚に至り、お姫様の魔法も解けられ、二人はラブラブな人生を送るようになった。めでたし、めでたし……

 この話、アンデルセンの童話とノルウェーの昔話を基にして作った話だった。イメージ的な部分や音楽、俳優たちの演技など、悪くなかった。研究発表でもっとも評価された点は、児童劇にも関わらず、劇のなかで暴力やセクスの問題が取り扱われた点だった。

 しかし、考えてみよう。そのようなめでたい話、あまりにも典型的で時代遅れの話ではないだろうか?綺麗なお姫様と純粋な好青年の結婚で終わる陳腐な結末と、善と悪をはっきりした話の構造。新鮮だと思える要素はかたちの部分しかなかった。内容はどうでもいいの?

ちょっと、興奮してしまった。

 第 一、結婚で終わる劇の結末は、現在の日本社会の流れともマッチして考えることができる。不景気が続くなか、活性化させようとしているビジネスの一つが結婚事業であると思う。確か昔より結婚を望んでいない人が多く、結婚ができない人も多い。一人で暮らすと、さびしい老後を迎えるかもよと、人々を軽く脅している話もたくさん聞く。「婚活」という新しい造語が流行っているくらいだ。ただ、結婚って必須事項ですか?
 大げさにいうと、イタリアの演出家まで呼んで、子供にこの社会の古いイデオロギーを注入させようとしているのではないかと、ちょっと気持ち悪かった。敏感に反応しすぎたかもしれない私にとっては、子供たちにより多様な人生のやり方を教えるべきではないのかと思った。人間は結婚を選ぶ自由があるし、その他のかたちのものを選ぶ自由も持っている。結婚という制度が、好きな人と結ばれる一番いいかたちではないし、それは決まっていないのだから。

 第二、綺麗なお姫様とハンサムかつ心優しくて純粋な青年のカップルは、まさに現在の社会の思想を反映していると思う。社会が望む美しい男女は社会が望む綺麗な格好をしている。美人・美男というわけだ。「シュレック」(Shrek、2001年)という映画が公開されたとき、結ばれた醜いシュレックとお姫様のカップルに熱狂した人はたくさんいるだろう。子供のときから社会が決めた綺麗・美しい・清潔などが優先される環境で育てられた子供たちの美意識は社会が望むように形成され、社会の望み通りの消費をする人間として育つだろう。このような概念は人間を無視したり、差別する社会のイデオロギーの一部として機能する可能性を持っている。多様さのなかで自分の個性を見つけられる環境(それはどういう環境なのと疑問を抱きながらも)を作ってあげることはこの社会の未来を考える上でも必要なことではないだろうか。

 話題を呼び起こしたこの演劇は、来年再演される予定だという。
 それはその結末通り、「めでたしめでたし」なのだろうか