暴力性を帯びたセクス文化の発信地として、新宿歌舞伎町

−外国人監督が見た東京(3)

 熱海にあるMOA美術館に行ってきた。今は「アフリカの美」というテーマで特別展が開かれている。ピカソマティスブランクーシなど、巨匠と呼ばれる画家や彫刻家たちの作品とともに、その作品に影響をもたらしたと思われるアフリカの造型を比較するように並べて展示していることが非常に興味深かった。アフリカの仮面の一部は日本の能面とも似ていてその影響関係を探ることもできた。


MOA美術館ホームページから(http://www.moaart.or.jp/exhibition.php)

 
 展示室を一緒に回っていた友達が言った。
「ここで展示されてるアフリカのもの、芸術作品っていうか、その国ではほとんど日常的に使われてるものなんだよね。」
 私もそれに応じた。
「うん、収集された時期からみると、侵略の歴史を垣間見ることもできるかな。こんな世界的に評価される芸術作品、勝手にアフリカのものに影響されてるね〜」

 ピカソの絵画と非常に類似しているアフリカのお面、アフリカの造型は彼のキュビズムに影響を与えたといわれる*1。アフリカ人のダンスに使われた布の模様が、他国の画家により絵になって売られ、エキゾチクなものを好む人々はアフリカの腰掛けを他大陸に持ち込んだだろう。
 現在の社会でアフリカのデザインはおしゃれだと評価され(婚礼やダンスに使われる布も展示され、美術館のコーナでもアフリカの人々がおしゃれであることを示していた)、売られていると思う。アフリカのデザインがオシャレだと感じ、その一部が高い値段でこの国でも売られているのは、それを持ってきて流行らした人々によって作られたイメージの影響を受けているからでもあるだろう。その作られたイメージは、アフリカにとっては極一部的なものにすぎないかもしれない。
 
 我々が接している様々なイメージの起源はこういった種類のものが多いともいえる。

 私は展示室でちょっとした違和感を覚えていた。そこで覚えた違和感の対象は、日常品として使われたものから勝手に芸術の素材をとり、そのイメージを作ることに貢献した芸術家たちにではなかった。芸術の素材の宝庫であるアフリカ大陸には成功した芸術作品に与えられた栄光のようなものが返還されたのだろうかということに関してだったと思う。(この問題はいろいろ誤解を招きやすいし、著作権問題に広げることもできるが、ここではやめておく)

 イメージも産業や利害関係と大きく関係するものであるから、この世の中にはさまざまなイメージが作られ、作ろうとする人も存在する。
 しおさんが前回〈日本のWebは「残念」じゃないよ〉で取り上げた梅田氏の話し。イメージとは別の話しになるかもしれないが、(イメージも大きく関係する)社会の主流の思想に影響されたか、あるいは自らそのような考えを作って従いたかったのではないかと思った。

 前回に続き、映画の話に戻ると、今回は新宿歌舞伎町のイメージを取り上げてみたい。映画『キル・ビルVol.1』(Kill Bill Vol.1, クエンティン・タランティーノ監督、2003)では、主人公・ザ・ブライド(ユマ・サーマン)がヘルメットを被って疾走する新宿の道路が印象深い。映画の内容はザ・ブライドの復讐劇であるため、全体的に暴力的な場面が多い。映画の背景となっている東京も、復讐劇の中心部として殺気と暴力性を漂わせる都市として描かれる。疾走するザ・ブライドの後ろには建物の看板が光っているが、発光する看板は繁華街である新宿のイメージをよく表している。復讐心に燃えるザ・ブライドの疾走は、映画の暴力性と伴い、新宿を暴力性の帯びた街として認識させる。それは実際に新宿のイメージとも考えることができる。ザ・ブライドが走る新宿通りは西部新宿駅新宿駅とその周辺が含まれるため*2、賑やかな繁華街で車が往来する道路は混雑する夜の風景をあらわし、ザ・ブライドの復讐に燃える心情とマッチしているといえるだろう。


by korkusuz_asker54(Flick)


 新宿警察署のホームページでは暴力団追放運動の実施が示され、暴力団への注意を呼びかけている。警察署のホームページに載せられた内容は、実際に新宿という地域が暴力団と関連していることを示唆している。

 前回取り上げた映画「Cherry Blossoms – Hanami」(ドリス・ドーリエ監督、2008)で新宿の歌舞伎町は妻を失ったRudiが複雑な心情で彷徨う街として描かれる。彼がそこで目にする光景は風俗店やキャバクラがずらりと並び、男性客で賑わうバーでは女性ダンサーがストリップに近いポールダンスを見せる。日本語を知らないRudiが客引きの若者に導かれて入るソープランドでRudiは急に妻を思い出して嗚咽する。この映画で描かれたセクス文化は他の映画でもよく描かれるイメージだが、日本のセクス文化はたまに誇張され、異様な文化として描かれるときもある。『ロスト・イン・トランスレーション』(Lost in Translation, ソフィア・コッポラ監督、2003)で主人公のボブの部屋に訪れるコールガールは、曲芸を披露する芸人のように描かれている。

 最近テレビで歌舞伎町の交番を特集した短いドキュメンタリーを見たことがある。そこは酔っ払い客が溢れ、交番には迷惑な街として存在した。日本を表す場所のなかで、秋葉原なども取り上げることができるだろうが、昔から新宿の歌舞伎町は日本をよく表す一つの場所として描かれていたと思う。
 コマ劇場がなくなった歌舞伎町は客引きをするホストたちが目立ち、以前よりは人の流動が少なくなったそうだ。酔っ払いのお客がタクシーのなかで寝てしまい、 起きないお客を起こすために交番に助けを求めてきた運転手。酔っ払いの若者がコンビニでお金を払わずにおにぎりを食べて起きた騒動。新宿の一部を象徴している歌舞伎町は、日本人にも騒がしい街として認識されていると思われる。

 人々は作られたイメージに左右されるといえる。しかし、人々はその作られた、もしくは作ろうとしたイメージのなかで暮らすために、そのイメージを受け入れ、うまく利用してきたかもしれない。アフリカの美を取り入れ、成功した芸術作品の品々、それにより作られたアフリカの美のイメージ、それと同様にアジアの美もまた他国で用いられ、アジアを代表する一つのイメージとして流行っているかもしれない。

*前回セクス王国としての日本のイメージについて書きたいと言っていたが、その話は新宿の歌舞伎町の話で終わりにします。また、ここで語ろうとする話しは一つのイメージにすぎません。新宿のイメージは東京のイメージとして広げることもできますが、一応今日はここまで。