「かわいい」と言い合う社会 by よん

言葉は時々二重以上の意味を持っています。私のニックネームである「よん」も私の名前の一部でありながら、数字「四」を指す場合もあります。
 自己紹介のとき、「よんちゃんって呼んでください」と言いながら、数字「四」を指で見せます。そうしたら、どうして敢えて「死」の意味とつながる「四」(よん)をニックネームとして使うのかと聞かれるときもあります。でもそれは関係ありません。言葉の意味は自ら作ることもできます。「死」という意味を持つ「四」も嫌いではありません。世界にはネガーティブの意味を持つ単語、ポジティブの意味を持つ単語が分かれているかもしれませんが、それに従う理由はないわけです。何より日本で韓国人である私の名前を日本人に覚えさせることは大変難しいことだと思いました。「よん」は私の名前の最後の読みに当たる文字でもあり、「よんさま」で有名な韓国俳優を連想させる文字でもありまして、私は「よん」を自分のニックネームに使用することにしました。
 前説が長くなりましたが、私は「よん」といいます。韓国人で日本に4年くらい暮らしています。演劇が好きですが、苦手でもあります。喜怒哀楽を感じる映画が好きです。音楽はあらゆるジャンルのものが好きですが、クラシックだけは苦手です。やりたいことがたくさんあって困っています。

 「しお」さんが書いた話と通じますが、外国人として日本語を見つめる、使う、日本語に慣れるなどのことは面白い経験、意外性を持つひらめきがついてきたりします。そこで自分は日本語というより日本で作られたものと日本文化との関連性について深い興味を持っています。明治時代、西洋文物の受容により翻訳劇が盛んになりました。その時期その翻訳劇は日本文化にふさわしい、日本人の共感を得るようなせりふや場面にならなければなりませんでした。その時期の翻訳劇で大衆の人気を博した作品のなかでは、日本の事情に合うように工夫された演劇が少なくないと思います。例えば、トルストイの『復活』が日本で演劇として上演されたとき、主人公であるカチューシャはロシア人の女性ではなく、日本女性のカチューシャとして生まれ変わり、舞台の上に立ったというわけです。

「カチューシャの歌」
カチューシャかはいや
別れのつらさ
せめて淡雪とけぬ間と、
神にねがひをかけましようか

(大正時代、日本で上演された演劇「復活」に挿入された劇中歌で、日本人により創作されています)

  日本に浸透している外来文化は、いつのまにか日本文化に生まれ変った。たぶんいろいろな分野でそれは行われた。 伝統文化だけが日本文化ではなく、日本における外来文化も日本文化の一種であり、非常に大事だと思う。

 それゆえ、そのなかでは日本文化の特徴的な要素が必ず入っています。日本で上演されたカチューシャが明治時代の女性を反映しているように、日本で受け入れられた外来文化には外国の要素を除けば、日本特有の個性なるものが残るということです。
 私はその日本文化の特徴に注目しています。歌舞伎や能などの伝統的なものからあらわれる日本の個性だけではなく、外来文化もしくは現在の若者文化に至るまで、日本に暮らしながら私の目に入る、個性を持つ日本文化に興味を持っています。これから私はだいたいこのようなことを考えていきたいと思います。曖昧な方向性であると思う人もいるかもしれませんが、テーマの範囲を広く開いておきたいと思っているからだと大目に見てください☆



 さて、タイトルにも書いたが、最近「かわいい」という言葉に興味を持ちはじめた。上記に引用した「カチューシャの歌」にも「かわいい」という言葉が登場するが、その意味は「愛らしく綺麗である」、「無邪気で子供らしい」、「かわいそうでふびんである」などの意を持つ。来日して以来、「かわいい」という言葉を頻繁に聞く。日本人は「かわいい」という言葉を発するとき、本当に「かわいい」と思って発しているだろうか。「かわいい」という言葉を言い合う人々にたまに違和感を覚えるときがある。それに関する一つのエピソードを紹介したい。
 去年9月、宮沢りえ主演の「人形の家」という芝居を観た。堤真一宮沢りえというキャストにデヴィット・ルヴォーという外国演出家の舞台だと聞き期待が高まっていた。しかもそのときは「人形の家」の日本への受容について調べている時期でもあった。「人形の家」はノルウェーの劇作家イプセンの代表作で、主婦であるノラが夫婦関係の矛盾を悟り、家を出る結末が話題を呼んだ1879年の作品である。

 

  宮沢主演の舞台は原作に充実だった。戯曲で読んだ劇のせりふが俳優たちの口を通して蘇っていた。宮沢のノラは可愛い女性だった。二人の子供を持つ奥様なのに、そんな可愛くていいの?と思うくらい可愛くて綺麗なノラだった。たぶんその可愛いノラの他に、印象深い何かを得ることができなかった私は、想像していたノラと宮沢のノラとの不一致に関して、わけもなく違和感を覚えはじめていた。前ビデオで見た大竹しのぶのノラのほうがよかったな〜とか思いながら。そのとき頭によぎった疑問は、「可愛ければいいだろうか」ということだった。
 その後、ゼミの授業で先生と一緒に「人形の家」の感想について発言する機会があった。私は宮沢のアイドル的なイメージにとらわれていたせいか、宮沢の可愛いノラに何も感じることができなかったと言った。自分の頭のなかで根深い先入観が働いているのではないかとばかり考えていた。みんなの意見を聞いたあと、先生は言い出した。演出家ルヴォーはノラの問題を現代に置き換えて解釈したのではないのか、可愛ければいいという現代の人々たちの生き方に疑問を投げ出しているのではないだろうかと、、、確かに可愛い夫人は現代の夫婦にもよく登場する。いや、みんなそうなりたがっている。可愛い女性、可愛い奥さん、可愛いお母さん…また疑問が頭によぎった。「可愛いだけでいいだろうか」。

 考えていくうちに、今の世のなかの可愛さに関するこだわりが異様だと思いはじめた。例えば、最近の若者は自分の身を飾ることに熱心である。一つの例として女子大学生が憧れる職業にクラブで働く、いわばキャバ嬢が上位を占めているようだ。彼女らをモデルに起用した「小悪魔アゲハ」という雑誌は今の流行の先端に立っているといえる。職業に関する先入観などを抱いているのではない。キャバ嬢が悪い職業であるとも考えていない。ただ、自分の身を飾ることに熱中し、可愛い化粧方を覚え、可愛く見られることにあまりにも熱中する人々が増えている。「かわいい」と言われたら、思われたら、「かわいい」人になれたら、それで満足できるだろうか。最近一部の女性のなかで流行っているお姫様スタイルは幼稚的な子供の欲求とも似ているといえる。「かわいい」子供から「かわいい」女性になり、彼女らが社会に進出し、「かわいい」自分を守ってくれる裕福な男性との結婚を選択する。「箱入り娘」という言葉がある。「大事に育てられた娘」という意味だが、ちょっと違う意味で彼女らはまさに箱に入ったまま、人生を送っていく気がする。もちろんそれは一部であると考えたいのだが。
 テレビでは公然とファッションチェックを実行し、もてるかブスなのかを判断し、可愛い女性は褒められ、ブスな女性はアドバイスを受ける。それは経済の発達とともない、性というものが商品化されてきたこの世の歴史とも関わっているだろうが。

 しかし、このような社会で普通「かわいい」という言葉が蔓延する。テレビのなかの人もそうでない人も、様々な人々が「かわいい」と言い合う。それは慰めあいの言語?それとも可愛くなりたいという欲望の表れ?広い意味でこのような社会の流れは女性だけのことではなく男女不問、老若男女問わずの現象だといえるだろう。今の流行りはあれだから、それを知らないと馬鹿にされそう。だから必死に追い付いて行こう。という気持ちも大事かもしれないが。
 世界は多様化していくのに、私が見ている一部の枠は一つに固まりつつあるようで、それに戸惑うときがある。「かわいい」を連発する人々の言葉の意味が綺麗で可愛らしい人に向ける言葉ではなく、たまに「かわいそうでふびんである」と聞こえる。言葉の意味も変っていき、自分が使う言葉の意味がなんだろうと思うときもしょっちゅうあるのだが。